意志弱人間

私という人間が極度の意志弱者であることをここに記しておこう。

三日坊主、飽き性、口だけ、片付けられない、勉強ができない、努力ができない。まあその具体例を挙げればキリが無いが、とりあえず私を意志弱者たらしめるのはそういうところである。

ここで少しばかり余談なのだが意志弱者を公言する際は毎度漢字を迷っている。そこでせっかくの機会だからと調べてみることにした。以下はGoogle先生にお聞きしたことである。

意思:何かをしようとする時の元となる心持ち

意志:ある物事を成し遂げようとする積極的な意欲

一見何が違うんだと微妙な感じだが、逡巡の末私は後者を選んだ。始めるのは苦手では無い。続けることが不可能なのだ。かつて始めたもので今もなお続いているものは何だろうか。モチベーションを保ち続けていることは何だろうか。せいぜい生きていることくらいである。いや、生存そのものにモチベーションは無いか…。じゃあ無いわ。

というわけで、私の意志の弱さが明言と共に露呈されたわけだが、全く生きづらい世の中である。

この世はなんとなく努力が大事っぽい感じになっている。努力とか頑張ることとか。でもみんなしたくないからなろう系が人気になるし、努力できる人には敬意を表される。分かる。大抵の人間が努力も頑張ることも苦手である。やらなくて良いことがあればやりたくないし、逃げ道近道があるならそっちへ行く。ラクな方が良い。だってラクな方がラクだから。頑張った先に達成感があるというが、ある程度やったって得られる達成感も存在する。じゃあある程度で良いじゃん。

頑張り切れなかったことを悔いることも、だって意志弱者だもんという言葉で亡きものにした。これは行動を正当化するもっともな言い訳であり、言い訳を使用することもまた意志の弱い証拠だ。

やれば良いじゃん、とは言われるが。それは結局はできる奴の言い分だろう。だから、それが出来ないんだよ。出来る人は出来ない人の気持ちが分からない。仕方のないことである。だから別に構わない。衝突するのも面倒くさい。

私が最も尊敬している人類である小林賢太郎は、あの努力の天才は、嫌なことや辛いことをすることだけが努力じゃないと仰っていた。例えば公演に行くためにチケットを取り、交通機関を調べ予約し、準備をして家を出る。そういうのも公演を観るための努力であると。納得はする。好きなことをするための過程は、過程そのものが辛くはなくても努力である。だが、もっとラクな道があるならそっちへ行くだろう。例えばどこでもドアがあるとかだったら、わざわざ切符なんか取るわけない。そういうことだ。ぬくぬく甘えながら惰性で生きているんだ。

基本的になんとなく全部を面倒くさいと思っている。大なり小なり嫌だなあと思っている。YouTube見るだけでも目を開いていることすら面倒くさくなったりする。睡眠でさえその選択への罪悪感や焦りを抱えることが嫌になる。トイレやご飯だって極限まで困窮しないことには相手にしなくなった。何かをするには、これらの面倒くさいや嫌だなあを払拭するに足るモチベーションが必要なのだ。

加えてモチベーションは有れば良いというわけでもない。それを保つことも難しいことである。モチベーションは日々更新していかなくてはならない。またモチベーション事態が原因で何も出来なくなることだってある。

例えば好きな人と同じ授業があるとしよう。その人と会うこと、は立派なモチベーションである。しかし前日に寝落ちてお風呂に入っていなかったり、寝坊して寝起き直後で行かなきゃいけないとなるとそれは最早会いたくないだろう。もう良いやってなる。

初めはモチベーションが高くそれに向かって前進していたとしても、いつかそこまでの道のりに飽きる。面倒くさくなる。嫌になる。そして徐々にかつてのモチベーションはその役目を成し得なくなる。投げやりになって進行しなくなる。プロジェクトは停止する。

精神の問題ではあるが精神の問題ではないし、心配に及ぶことではない。直そうにもこれは性格の一部であるし、まず直すモチベーションが無いのだから早々に詰みである。じゃあもう良いじゃんこれで、面倒くさいし。

天才は1%の閃きと99%の努力だったか。99%も頑張れる才能たるやを授けてもらっているではないか。やはり天才は天賦の才を持っているのである。羨ましい限りだ。

長々とお見苦しい言い訳タイムだったが、意志の、少なくとも私よりは強い人間は、こういう人間がいるのだということだけでも知っておいてくれると嬉しい。

というわけで、寝ることにする。