最近すぐにくたくたになってしまって、夜もすぐに寝てしまっていたので気づけば日記を1週間くらいさぼっていた。さぼっていた間に家の洗濯機が新調されたり(使い込みすぎて回すたびに家中に響き渡る轟音を発していた旧式から洗剤も自動で投入してくれるドラム式に変わった)我が部署に新入社員がやってきたりした。新入社員の彼についてはやっぱり配属初日はガチガチに緊張していて、私が所用で話しかけにいってもあんまり目を合わせてもらえなくて、(いや、これは私の勝手な感覚にすぎない)そりゃそうだよねえと思うと同時に、自分のときはどうだったかなあとやっぱり考えてしまった。でも、目を見て話すのはともかくとして、たとえば立っている先輩や上司に話しかけられたら必ず自分も立って答えるとか、そういうことは私も会社員になってから身につけたことだったし、そもそも瑣末なことだし、大体今の彼と10年前の私を比べることには何の意味もない。10年前の私はこれから自分が社会人になるのだということに恐れ慄いて入社前日にパニックを起こし、泣いて親に電話した挙句車を飛ばして神戸まで来てもらったし、会社に入ったら入ったで、最初の配属先でどうにか頑張っていたけれど、1年が経った頃の飲み会でぷつんと糸が切れて「もう場所を移りたいです」と号泣していたし、思えば節目節目で泣いていた。今の新入社員にそんなナイーブさがあるのかはわからないけれどそんなものもちろんなくていいし、できれば伸びやかに健やかに会社員生活を送ってほしいと思う。私は就活も半ばゲームみたいに捉えて全部演技したおかげで(演劇部だから)なんとなくすいっとクリアしてしまって、だけどそのせいで就活の時にかぶった猫と今の自分とのギャップに自分で苦しんでいるというか、会社にはこんな人間を採用させてしまって申し訳なかったなあと思っているので、今の彼の就活がどうだったかは知らないけれど、そういうこともないといいなあと思っている。全き自然体のままで就活を乗り切れるとも思わないけれど、そのギャップは小さければ小さいほどいいに決まってる。というわけで、これからの彼にたくさん幸があってほしい。社会人になったからといって世界は終わらないし、社会人になっても、いや、なったからこそ楽しいこともたくさんある。
今日は『落下の解剖学』を観た。しみじみと面白い映画だったなと嬉しくなってしまった。何がどう、と言葉にすることは難しいのだけど、脚本が脚本たり得ているというか、脚本としての機能が120%発揮されている映画は観ていて嬉しくなる。何が脚本としての機能なのかという話だけど……これも全部直感で書いていることなので説明が難しい。高校時代に演劇の脚本を書いていたけれど、しみじみと思うのは、人物の語りとト書きで物語を進めるのは本当に大変なのだということ。物語を進めるための単なる説明になってもいけないし、会話っぽさだけにこだわりすぎるとセリフひとつひとつの意味が薄くなってしまうし、この間をとって、どこを切り取っても魅力的なセリフを作る、そしてその人をその人たらしめていくか、を計算して書く作業というのは本当に骨が折れるのだ。『落下の解剖学』は魅力的なセリフに溢れていたと思う。こんなセリフが書きたいなあとしみじみ思ったのだった。
主演のザンドラ・ヒュラーは『関心領域』でも主演しているので、こっちも是非上映してくれと願う。田舎なので、上映してくれるとしてもいつになるかわかりませんが。この『落下の解剖学』も都会では2月に公開されていたのにわが地元は今になってようやくだったので。まあ、上映してくれるだけありがたいと思わなくちゃならないのかもしれない、この田舎においては……。
いろんな人が言っていたことだったけど、犬がすごかった。犬ってあんなこともできるんだ……。
僕は人間関係の構築にも維持にもあまり積極的ではないが、恋人や友人という概念が僕の中にあれば違ったかもしれない。名前がついて可視化されたそれを維持しなければならないという気持ちになったかもしれない、良かれ悪しかれ。そこから束縛や義務といったものも生じてくるが、全部が全部悪いものではないんだろう。僕みたいな奴ばかりだったらはじめから関係は発生しないし、しても自然消滅するだろう。自然消滅しても何も悪くないと僕は思っている。関係は、発生したら継続しなくてはならないなんていう法はないからね。ある時誰かと出会って、何らかの現象が起きて、その後二度と会わなくて、それでいいと思ってるんだ。あったことはなかったことにはならないから。
川野芽生『Blue』p132.
川野芽生『Blue』はトランスジェンダーの真砂が主人公の物語ではあるけれど、彼女の高校時代の演劇部同期である滝上ヒカリの存在があまりにも魅力的だった。というより、演劇部仲間たちに皆粒ぞろいの個性があって、物語を引っ張っていく力として真砂の存在ひとりではちょっと弱いような気がした。真砂が大学生になり、もう一度男性として生きることを決めたエピソードも、その内容は現実でもよく見るよねというか、真新しさにはちょっと欠ける。だけどそれは物語に意外性を求めすぎる自分への反省にも繋がるし、人が何らか変化を起こそうとする理由はそもそも皆似通っているのかもしれないのだ。
滝上ヒカリについては偶然なのかそれとも意図するところなのか、松浦理英子『ヒカリ文集』を思い出す。これも学生演劇部の物語だったし、ヒカリの行動動機は上に引用した滝上ヒカリの意見にも通じるようなものがある気がする。(あらすじ等を書くのには力尽きた)
『ヒカリ文集』では特に飛方雪実のエピソードが好きだった。
ヒカリへの感情はさまざまに移り変わったが、結局のところ、恨みではなく楽しませてくれたことへの感謝が残っている。自分でも意外だった。他の人々もそうなのかは知らないけれど、私は自分をとびきり気持ちよくさせてくれた相手を心底嫌うことはできないようだ。つき合っていた時期の思い出は眩しくいとおしく、私を安らがせると同時に力づける護符のようなものになっている。ヒカリのおかげで言える。この先何一ついいことがなかったとしても、私の人生は最低最悪というわけではない。ほんとうに、地獄にでも天国にでも一緒に行きたかった。
松浦理英子『ヒカリ文集』p132.
松浦理英子はとにかく人物への名付けが秀逸だと思う。『最愛のこども』の彼女たちの名前はみんな、本当に美しかった。