世間的にはまだお盆休みということで6日ぶりに出社してみたけどほとんど誰もいなかった。あまりに静かでやることもなかったので、16時でフレックスを使って退社。本当は今日が試験日だったんだけどな。まあそんなことを言い出してももうしょうがないので、サンマルクコーヒーに立ち寄ってあんパンとほうじ茶ラテをいただいた。最近なぜかあんパンにハマっていて、見つけると嬉々として買ってしまう。ほうじ茶ラテも最近リニューアルしたみたいで、飲んでも飲んでも粉っぽさが続くのがスタバのほうじ茶ラテっぽくて高得点。粉っぽさって好みが人によると思うのだけど私は「あ〜濃いものを飲んでるわ〜」みたいなお得な気分になるので好き。カバンの中に入りっぱなしになっていたサラ・ピンスカー『いずれ全ては海の中に』を読み進める。海外文学のSFは頭のチューニングを合わせるのに時間がかかるしこの本も読み進めるのに結構つまづく。海外SFは何と言ってもテッド・チャンの『息吹』を読んだときの感動を当分忘れないだろうな、素晴らしい小説だった。そんなことを思いながら帰りの電車の時間まで過ごす。
最近シャンプーを変えたのだけど、変えてみたらいつも使っているモロッカンオイルがいらないかな? と思うくらいにしっとりするようになった。でも個人的にはモロッカンオイルの香りが好きなので使い続けたい。どうしようかな。モロッカンオイルももう10年くらい使ってる。学生時代に当時お世話になっていた美容師さんからいちばん小さな瓶をもらって、それを持ってドイツに行った。モロッカンオイルってハチミツみたいな甘い匂いがするので、オープンカフェにいたらやたらとミツバチにたかられたのを覚えている。ドイツにはミツバチがたくさんいます。そんな思い出もあって、多分忘れたくなくて、今までなんとなくでもモロッカンオイルを使い続けている。私が何か特定のものを使い続けるのはそのもの自体の性能とか効果とかよりも、そのものにまつわる思い出や記憶を忘れたくないからだ。
帰宅して一子さんの『降伏の記録』を読み進めて、やっぱり私も日記、がんばろうという気持ちを新たにする。私は一子さんほどに現実や内面に肉薄できないけれど、できれば、肉薄してみたい。もっともっと正直に、アンテナ高く、いろんなことを覚えて、書き残したい。もはや何を目指しているのかわからないしフィクションも引き続き書いていきたいけど、でもこのしずイン日記をマイペースながらも8ヶ月続けて来れて、できればこのままずっと続けたいという思いが日に日に強くなっている。
書くことで誰かを傷つけないなんてことは無理。わたしもどこかでそれをわかっているからこそ、いろんなインタビューやなんかで、誰のことも傷つけないように書いているとか、根底に愛情があるつもりです、なんて言っているのかもしれない。そもそも無理なのだ。誰かのことを書くということは、一方で誰かを傷つける。もっと意識的でいないと、わたしはどんどん傷つけそうな気がする。傷つけるということを自覚しないと。
植本一子『降伏の記録』pp.30-31.
私はこのしずインで日記を書くまえはnoteで日記やエッセイやいろんな感想文を書いていたのだけど、そこでは家族のことや、もう会わなくなった友達のことなんかを好き好んで書いていた。それでいろんな反応をもらっていたわけなのだけど、ほぼ全部が好意的な反応だったことが今思えば奇跡で、私がやっていたのはある種の暴力でもあったんだってこと、今ならわかる。私も「誰のことも傷つけないように」とか「愛を持って」とか、そんなことを考えて、そんなスタンスでいるから許されるものだと思っていた。だけど、書かれた内容は愛に溢れてその人を1ミリも貶していなかったとしても、「自分が与り知らぬところで書かれた」というそのこと自体にショックを覚える人だって絶対にいたはずなのだ。それに、私もただ純粋に書くことが楽しいから、それだけの理由で書いていたわけでは絶対なくて、どこかで、反応が欲しいから書いていたところもあって、そうであったとしたら私は人からの反応欲しさに家族や友達を売り飛ばしていたことになる。しかもただで。いや、お金が発生していたならもっと悪かったかもしれないけど。
でも、だからもう書かないようにしようとはあんまり思っていなくて、それが私の軽薄で愚かなところだとも思うのだけど、一度、もう10年以上会っていなくて連絡先もわからなくなって音信不通になった友達の思い出話を書いたことがあって、そうしたらその友達がどこからか私のnoteを、その記事を見つけてくれて10年以上ぶりに連絡をくれたことがあったのだ。めちゃくちゃびっくりして、今更ながら自分が書いた内容に問題はなかったか心配になって、連絡が来たことを喜ぶ前に不快な気持ちになったならすぐに削除するからねと伝えたのだけど、そうしたら彼女は「覚えていてくれて、書いてくれて嬉しかった」と返事をくれた。書くということは、それをインターネットの海に放流するということは、放流した瞬間に私の手をあっという間に離れてどこへでも、私のこの手などはじめからなかったみたいにどこまでも、流れていってしまうんだということを実感した。私が書き残したことが10年以上音信不通だった人を連れてくるということの、その身軽さ、途方もなさを実感し、経験しているからこそ、誰か私の大事な人のことは書かないようにしようとは、あんまり思えない。私の好きな人のことを、私は、いろんな人に知ってもらいたい。その気持ちすらもある種の暴力で、誰かを傷つけるものであることはわかった上で、(いや、本当の意味で分かってはいないのかもしれない)それでも、私はあなたが好きだということを書き残していきたいのだ。全部綺麗事である。