私はどちらかといえば物覚えのいい方だとずっと思っていたけれど、あまりに忘れた映画も小説も多いので、実はそうでもないのかもしれない。今日はblueskyでウォン・カーウァイ4Kの話をして、私は一昨年頑張って5作品全部観に行って映画館がやっていたスタンプラリーも制覇して、景品としてミニポスターをもらって帰ってきたのだけど、肝心のその5作品のことを、内容であれ感想であれたとえ一つのワンシーンであれ、覚えているかというと自分でびっくりするくらい記憶が曖昧で、『恋する惑星』のフェイ・ウォンが可愛かったこと、『ブエノスアイレス』で二人が喧嘩していたこと、ダンスをしていたこと、そしてイグアスの滝、『花様年華』での華やかなチャイナドレス、『2046』でフェイ・ウォンが日本語の勉強をしていたこと、くらいの印象しかもはや残っていないことに気づき、軽く絶望する。かろうじて、この5作の中では『2046』がいちばん好きだったなという感想くらいは残っていたものの、それ以外の印象がもはや無である。単純に悲しいなと思う。ウォン・カーウァイほどの監督の映画をいとも簡単に忘れてしまう自分の頭に。忘れてしまったということは、私にとってウォン・カーウァイはそこまで重要な監督になり得なかったということなのかもしれないけれど、それにしたって、悲しい。もっと解像度高く、映画にしても、小説にしても、触れていたいのに。思うに私は世界への解像度があまり高くないからこそ、いつもぼんやりしているし、思考にも深みがないし、他人の意見を鵜呑みにしてしまう。
この映画のなかで印象的に反復されるファイとウィンによる男役と女役が男ふたりに振り分けられたタンゴについては、かつて「奇妙な情景」と形容されてもいた。『ブエノスアイレス』において直接的な性描写が開巻のみでその後に一度もないように、タンゴはふたりにとっての性行為の代理表象にほかならない。グザヴィエ・ドランの『トム・アット・ザ・ファーム』(2013年)で亡き恋人の兄とドランが男ふたりで踊るタンゴも『ブエノスアイレス』同様、映画においてひときわ官能性が湧出する瞬間だった。
黒人男性の生涯忘れられないただひとつの恋を描く『ムーンライト』(2016年)では、『ブエノスアイレス』の序盤でイグアスの滝の映像とともに流れていたカエターノ・ヴェローゾの「ククルクク・パロマ」が再び聴こえてくる。『ムーンライト』において同じ音色は、カメラがティルトアップし海の上に浮かぶ月が姿を現すとともに、徐々にフェードアウトしてゆく。それはまるでどこか別次元へと思いを馳せるような手つきではなかっただろうか。
あるいは、まさにイグアスの滝のファーストショットから始まるのは、チリ映画『ナチュラルウーマン』(2017年)だった。映画の主人公であるトランスジェンダー女性のマリーナは、この滝の持つ獰猛さや力強さを体現した存在として描かれている。
児玉美月「イグアスの滝が生み出した水脈」(ウォン・カーウァイ4Kパンフレットより)
児玉美月さんが挙げている映画も、私は観ているはずなのだけど(しかしなぜか『ムーンライト』は観ていない。観たい観たいと思っておきながらこの体たらくだ)こうして指摘されるまで『ブエノスアイレス』とのつながりを意識することはなかった。児玉氏が書いている通り、『ブエノスアイレス』は今日のクィア映画に色濃くその存在感を残しているのだろう。まさにイグアスの滝が水脈を作り、脈々と、今のこの時代まで流れ着いている。そういうことをもっと自分の感性と記憶でもって感じ取りたいと心底願うのに私の感受性の低さと記憶力の悪さがそうさせてはくれない。それにしてもウォン・カーウァイ5作品、また観たくなってきた。blu-rayのページをぼんやり眺めていると欲しくなってくる。『ブエノスアイレス』と『2046』だけでも買おうかな?!
明日は『関心領域』を観にいって、駅構内で開催される古本市で本を物色するつもり。今月になってまた本が読めなくなってしまって、積み上がった本を前に呆然として、眠気に勝てずに寝てしまう日々だけど、それでも本を買うのはやめられないんである。しかも明日の古本市は全国の古書店が集まる年に一度の規模の大きい版なのでとても楽しみだ。去年もどか買いした記憶があるけれど今年もそんな予感がする。去年の記憶としては、M・デュラスの『ヴィオルヌの犯罪』の文庫本を発見したのだけど、ハードカバー版を持っているから(それもめちゃくちゃ古ぼけたやつではある)別に買わなくていいか……と手に取らなかったことを今になって後悔している。買っとけよ! 持ち運びできるだろ! 今年また会えるとは思っていないけれど、この古本市じゃなくても、もしまたどこかで会えることがあるならそのときは絶対に買おう。明日はどんな本に出会えるだろうか。