月曜日です。ということは、J庭から数えて4週連続のイベント準備・運営が、終わりました〜〜〜!
土日が最後のイベントであり、これが一番規模の大きいラスボスイベントでもあったのだけど、蓋を開けてみたら人が多くて大盛況だった。去年の実績から考えて、まあこれくらいの持ち込み数でいいかと思ってたクイズ用紙の数もノベルティの数も足りず、二日目に追加を持っていくほどだった。私は土曜を休んで日曜日の運営&撤収の担当だったのだけど、人の入りは土曜日の方が多かったみたいだけど日曜日も十分忙しく、外はこんなに雨が降っているのになぜみんなこんなところまでイベントに来るんだ……と思ったけど、グルメフェスが同時開催されており、みんなどっちかというとそっちの方が目当てで、私たちのいるイベントはついでのようにして立ち寄ってくるのだった。しかし本命であろうがついでであろうがお客さんはお客さんなので、来る人みんなに対応してると目まぐるしくてあっという間に時間が過ぎた。そして私は何と言っても風邪をひいており、土曜日の日記では「熱がなくて不幸中の幸い」とか書いてたけど結局夜になって熱が出て、おっこれはさすがにやばいかも🎶と思ったけどどうにか一晩で下がり、体もちゃんと動いたので予定通り出勤したのだけど、イベント終了1時間前くらいで声がおかしくなりはじめ、撤収の頃には完全に枯れていた。でも同僚や上司の人たちは私の声がおかしくなるまで私が風邪をひいていることにも気づいてなかったみたいで、なんか声おかしくない? いや実は風邪ひいてて……、えっ? みたいなやり取りを何回かした。会社に帰って後片付けをして、解散する頃にはもう体はバキバキ、頭は割れるように痛い、6時間立ちっぱなしで普通に腰がやばい、という状態でふらふらになりながら電車に乗って帰り、21時半には爆睡した。とはいえ、終わったものは終わったんである!
今日も普通に出勤で、えっ昨日の今日で、出勤……??? という感じだったけどやり残していた後片付けの続きをやり、明日までに作らなくてはならなかった資料を作り、やれることはやって早めに帰った。イベントがもう終わったんだ、次の週末は何もない週末なんだ! と思うとそれだけで憑き物が落ちたかのように清々しく、まあイベントが終わったからといって全ての仕事が消失したわけではないけれど、でもこの1ヶ月ずっと頭の中に引っかかって取れなかったものがようやく取れた。最高!!! 私は乗り切った!!! 全部どうにかできた!!! 達成感に満ち満ちている。帰りに本屋に寄って3冊買ってしまった。それくらいは許されたい。

脳のリソースが一気に空き、なんか久しぶりに本を読めるかもしれない! ということで、絢さんの新しい詩集を読んだ。この表紙の絵が大好きである。サイズも小ぶりで可愛らしい。持ち運びに良さそうだ。
断っておくけれど私は多分詩をあんまり理解できない方の人間だ。と言うけれど、昔、といっても本当の大昔、小学生から中学生くらいの頃は音楽を作ることも好きだったので、自分でも歌詞を量産していた。言葉は後から後から湧いて出た。学校からの帰り道にぽんと浮かんで、それを家に帰ってそのまま書き留めた。そういうことをしていたけれど高校生くらいになって自然と歌詞からも詩というものからも遠ざかり、ほとんど書かなくなった。それと同時に私はもはや詩人ではなくなった。思春期の頃は誰でも詩人とは言うけれど、思春期を過ぎれば一定数の人間においては自分の中の詩人は死んでしまうんだなと思った。それから私は詩というものが多分わからない。
去年絢さんが私の町に来てくれて、夜ごはんを食べながら詩の話をした。小説は辻褄を合わせないといけないじゃないですか、と絢さんが言うので私はいやでも辻褄を合わせないと終わらせ方がわからないじゃないですか、詩ってどうやって終わるんですか? とアホみたいなことを言い返して、そうしたら絢さんは自然とわかるんですよ、とおっしゃった。その時は、ほんとかなあと思っていたけれど、久しぶりに絢さんの詩に触れて、確かに、詩が「これで終わり」と言ったところでどれも確かに、そして静かに終わっていた。すーっと、収束していくような。そっと、手から離れていくような。
これは表紙の色に引っ張られていると思うのだけど、絢さんの前作『あかるい身体で』は、冬のよく晴れた朝、朝日が昇った直後の、まだ空が透き通っている時間、絢さんが白い息を吐きながら、その透き通った空を見上げているような、そんな朝のあかるさがあったのだけど、この『祈りとしての手の動き』は、どちらかといえば夕方から夜のイメージに近くて、そして、『あかるい身体で』よりも、絢さんの眼差しがもっと遠くに向けられて、それこそ、小さな宇宙と接続しているかのようなスケールの大きさを感じられた。遠い国で起きている戦争、虐殺、貧困、そういったものへの眼差しも感じる。そして、『あかるい身体で』と共通しているのは、「水」の存在感だなあと思う。絢さんの住んでいる街にある川、遠い記憶の中の海、そして平等に降ってくる雨、そういう、水の気配、耳をすませば水滴が落ちる音が聞こえてきそうな近い距離、すごく水に親しんだ詩に満ちているなあと思った。命を維持するには水は欠かせない。そういう、欠かせないものを大事にしているのだと思った。それは言葉だってそうだ。だからこそ絢さんは詩を書いているのだろうと思った。
詩のことはよくわからないけれど、詩を読むと、あ、言葉が存在しているって思う。ここにあるのは言葉だって思う。それは小説を読むときにはあんまり味わえない感覚だ。それは詩の言葉が遅いからこそ、私に向かってくる速さもゆっくりで、その分、時間をかけて私に染み渡るからだろうと思う。久しぶりに読む詩集はとても心地がよかった。忙しさで乾いていたものが私に染み渡っていったのだ。
そして、きれいな水のような詩を書く絢さんに、私の書く海の描写が好きだと言ってもらえたことは、とても嬉しいことだなあと改めて思ったのだった。