今日は父の誕生日だったので、帰りにケーキを買った。そのついでに本屋に寄って、岡真理先生の『ガザとは何か』も買った。ずっとアウトプットに針がふれているけどこれはできるだけ早く読みたい。冒頭40ページくらい読んだけどこれは絶対に読まれるべき本であることが一文字一文字から伝わってくる。
前回の日記で、最終回の展開にちょっと自信がなくなってきたと書いたけど、結局今まで頭の中に置いていたイメージを一旦リセットすることにして、じゃあどうするかということをずっと考えていた。でも残りは最終回というところでその最終回の展開を変えるって、じゃあ私は今まで何を目指して書いてきたのか? という話である。プロットを作り込まないからこんなことになるし、作り込まないままで見切り発車するから今こうなっている。でも、一旦全部リセットしようと思ってから、これ本当にどうしよう私は完結させられるんだろうかとすごく心配だったんだけど、今日ユリイカが来た。過去の回で適当に放っておいた要素がつながった。
使うかどうかわからない、そもそも後に使えるものだと思ってなかった要素が終盤あたりになって突然パズルのピースがかちっとぴったり嵌め込まれるみたいに次の展開に生かされることが、ちょっと長い話を書いていると起こる。私の作品はこれが起こることによって助かっているというか、この現象に期待しすぎている。この現象がほしいからあえて結末を深く考えずに書き始めることが往々にしてある。あまりに博打であるが、けどこの現象に出会ってしまってからは、書く前にどれだけ精巧なプロットを作っていたとしてもそれが全部覆されることがあるのだという、ちょっと良くない成功体験になってしまい、それからずっと私はこうである。だけど、こうしてユリイカが起こるとき、物語には須くイデアがあるのだということを心底実感する。物語には意思がある。自分がどれだけ細部までコントロールしようと思っても、あるとき物語が自分の手を不意に離れて走り出す瞬間がやってくる。まるでその物語には最初から完成された形があって、私の方がその形に向かわされているような。似たようなことを川上未映子も『夏物語』のインタビューで語っていたことがある。彼女と私を並べることはあまりにも烏滸がましいけれどだけど私の場合はそうなんである。物語には意思があるのだ。私から生まれる物語ではあるけれど、それは育つうちに自我を持つ。こうなりたい、この結末がいいと物語の方が訴えてくることがある。そんな声が聞こえてしまっては、私はそれに従うしかなくなる。それは今まで書いてきた文章の中の要素が後になって生きてくる形で立ち現れる。それが私のユリイカだ。そしてこのユリイカを起こすためにはなるべく多くの要素を散りばめておくこと。それが物語の意思の全容を掴むヒントになるから。後で使うかわからないというか、そんなことをそもそも考えず、とりあえず、散りばめておくこと。だけどこれもなかなか難しい。というのもそういう要素は書いている途中には「これいらないかもな」という感覚が多く、大体を消してしまうからだ。だけどその「これいらないかもな」という感覚を運よく持たれなかった要素は後になって光り出す。その光が物語の意思を照らす。照らして、私に見えるようにしてくれる。
というわけで、できれば今月中に最終回を書き切りたいと思っているのだけど、そんなことを言っているそばから明日は『夜明けのすべて』明後日は『ファースト・カウ』と『ミツバチと私』を観に行こうと思っているのだから予定はどこまでも未定だ。本は全然読めないけれど映画館には行こうと思える。原稿をしたい気持ちもあるけれど、映画だって期間内に観にいかなければ終わってしまう。自分の中の天秤を安定させるのはいつも難しい。
それにしてもB'zのALONEがいい歌すぎてもう一生好きだし一生聴いていたい。I was born to fall in loveなのにyou know, we're all aloneなんである。最終回を書くときのBGMはALONEのヘビロテで決まりだ。というのも元々この物語を書こうと決めたとき、一緒にALONEも主題歌に決めたからだ。それからいろんな曲をプレイリストに入れたけれど、でも結局最終回になってALONEに立ち戻ったのを思うとやっぱりここでも物語の意思を感じるのだ。結局これを感じる瞬間が純粋に好きだから、物語を書くことはなんだかんだでやめられないのかもしれない。