20240320

kyri
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祝日だし『ゴジラ-1.0』をもう一回観にいこうかと思ったけれど天気予報は雪だし、そして今日になってものすごい風が吹いてきたのでやめることにする。これも何かの思し召し、原稿をやれということですね。そうそう、最近Macbookからずっとぶいーんという異音がしていて、もうこれは臨終の合図だろうかと慄いていたのだけど、先日その異音が一晩中続いたことがあり、覚悟を決めて再起動をしたら異音がぱったり消えて、ついでにchromeもアップデートされてとてもすっきりしたのだった。いや早くやっとけよ。でもあのときはなぜか再起動したらそのままこのmacは一生目を覚まさないという妙な思い込みがあったのだった。そんなことはなかった、これで一安心。とか言って数日後に壊れた! とか書いてたらせめて笑ってください。ていうか最近macが壊れたらどうしようとかそんなことばっかり書いてませんか?

春先のそわそわするような匂いと、ぬるい気温が何かを駆り立てる。予感のような、諦めのような感情がわたしのなかに渦巻いている。なにかに憧れる気持ちだけで生きていきたいと、ずっと思っていたような気がする。普通に生きられなかったことを強く呪いながら、そんないびつな心を大事に育ててきたと、気づいたときにはひとりで泣いていた。ディズニーランドのホテルのロビーで、わたしはひとりぼっちだった。

僕のマリ『いかれた慕情』p87.

僕のマリ『いかれた慕情』は『常識のない喫茶店』よりも私にとっては数倍よかった。どのエッセイでもそうだけど、私は著者とその友人や家族とのやりとりが書かれたものがとても好きだ。友人や家族という他者との関わりの中で浮かび上がってくる著者の像というか、人となりというか、他者に触れて化学反応を起こす著者のひらめき、みたいなものが、とても好きだ。『いかれた慕情』にも著者の家族や友人がたくさん出てきて、そして著者の学生時代の思い出も、全てを余さずに、この二本の手で書き切ってやるのだという、燃えるような切実さを感じた。こういう本に出会うとき、読書をしていてよかったなと思う。こんな燃える炎に出会えたことは僥倖だったなと。同時に、これを書くことができたのが、なぜ自分でなくてこの人だったのだろうと思う。なぜ自分はこれを書くことができなかったのか。私はこんなところで、一体何をしているのか。

自分より年下の人が才能に満ち満ちていたり、私よりも教養深かったり、思慮深かったり、そして実際成功していて、光を浴びて、喝采の中にいるのを見ると、私の心は嫉妬で燃える。自分より年下の人の才能や教養や思慮深さを羨むとき、私はその人になりたかったと心底思う。その人として生まれたかったし、その人の人生を生きたかったと、自分の人生全てを棚に上げて、いつもいつも、心底思う。年下でなくても、私はいつも、比べる相手を無意識に探し出しては勝手に嫉妬している。この人になりたかった。この人の目と耳と感性が欲しかった。私の存在がここから消し飛んで、あの人と、この人と、すうっと同化できたなら、どんなにいいだろう。

2021年の私のnote

2024年になっても、この人になりたい、なりたかったという気持ちを日々抱えながら生きている。素晴らしい作品に触れるとき、なぜこれを生み出したのが私じゃなかったのかと、いつも思っている。なぜ。なぜ私にこの能力がなかったのか、なぜ私には成し得なかったのか、なぜ私はこんな人生だったのか、なぜ、私は私として生まれてきたのか。なぜ私は私だったのか。この人ではなく、なぜ、私がここにいるんだろうか。

その人になりたいという気持ちは、その人を尊敬しているようで実はその逆の、とても、その人自身を蔑ろにする感情であることはわかっている。その人の経験や記憶をインスタントに自分のものにしたいのだというとても浅ましくて卑しい気持ちだ。その人一人がここまで生きてくるには膨大な時間があって膨大な人生がある。その人一人が本を一冊書き上げるまでにそんな膨大なものがかかっている。それを、そんな時間を経たことを何にも考えないで、上澄みだけを見て羨ましいなと思うのは浅ましいことだ。だけどそんなことはわかっているのだ。わかっていてなお、私は羨ましいという気持ちも、あなたになりたかったという気持ちも止めることができない。

だけど、上に引用したnoteは宇佐見りんが『推し、燃ゆ』で芥川賞を受賞したときに怒りにも似た燃える心で書き殴ったもので、これを書いてから3年が経った。3年を経てなお、宇佐見りんに心を燃やされているかといえばそうではない。あんなに燃えていた火はいつの間にか消えてしまった。悔しい、羨ましい、私だって、と地団駄を踏んだあの気持ちはこれを書くまでずっと忘れていた。私は忘れてしまうのだ。どんなに心が燃え盛っても、私は、忘れてしまうんだ。そして、私がその人になれない理由もそこにある。

昔の私は悔しいという気持ちだけで生きていたようなが気がするのに、気づけばその悔しさも、随分と小さくてかわいいものになってしまったように思う。波風立たずに日々を過ごしていくことの方を優先させて、私は私の激情に目を向けて、耳を澄ませることをやめてしまった。そうして手に入れた日々はとても穏やかで、まさか私にこんなものがやってくるなんて、私がこんな日々をよしとするなんて、10代や20代の私には想像もつかなかっただろう。これでよかったんだ、とも思うし、こんなはずじゃなかったんだけどな、とも思う。だけど、やっぱり、この日々を選んだのは他ならぬ私なのだ。

私は私が思うよりずっと普通で平凡だった。私が書くものもまた凡庸なものだろう。今ではそれが、悔しいというよりも、ただ寂しい。

@kyri
日々と二次創作の間で