20240720

kyri
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公開:2024/7/20

昨日からすごい雨が降ったり止んだりを繰り返していて、何だこれと思っていたけど今日の午後にはすっかり上がってしまったようだった。そうしたら今度はすごく暑くなり、天気予報を見たら向こう一週間はずっとおおむね晴れ、そして暑いみたいで、いよいよ梅雨明けの気配がする。蝉も鳴き始めたことだし、本当に夏が来る。それにしても天気予報で37℃とか見たときの絶望感たるや凄まじいよ〜発熱してるじゃん。もはや常時お風呂に浸かってるようなもん。私は結構汗をかく方なのだけど、ほんとに地獄。でも、こんなに汗をかいてるんだから痩せるじゃんと思っていたのだけど、暑いときにかく汗って体温調節のために出ている汗だから体重の増減とは関係がないらしい。むしろ夏って暑いから運動不足になって太るらしい。なんてこっただよ! こんな不条理があるか!


今日も明日もお勉強なので、それについては変わり映えしないので割愛。大体ノートにまとめ終わって、今日から過去問に手をつけ始めたのだけど、もー全然わからなくて全然だめ。真面目にノートを作ってちょっと自信がついてたところにこれはだめ。やっぱり受かる気がしません。会社のロードマップとか社内ルールが何でこんなに難しいんだろう。多分、興味がないからだな……終了……。


ハン・ガンの新刊もまだ読んでいないのにイーユン・リーの新刊まで出てしまって、嬉しい悲鳴。今日勉強終わりに早速買いに行った。

イーユン・リーは中国人であり、でもアメリカに住んでいて、英語で小説を書く作家なのだけど(日本人でありベルリンに住んでいてドイツ語でも小説を書く多和田葉子にちょっと似ているかもしれない)本屋で中国文学の棚に彼女の本が並んでいるとちょっと違和感を感じてしまう。リーは英語で小説を書くけれど、中国の人々を主人公にした小説が多い。最近はそうでもないし、最新刊『ガチョウの本』を早速読み始めたけれど、この主人公はフランス人だった。リーが中国人だからその作品もまた中国文学になるのかといえば私はあんまりそうは思えなくて、むしろ私はリーを英米文学だと思って読んでいる。それは私が中国文学に馴染みがなくて比較対象がないからというのが多分一番の理由なのだけど、私は単純なので、英語で書いてあるなら英米文学だろうと多分、短絡的にそう思っている。

 収録された作品の舞台の多くは現代中国であり、登場する人々も中国人ばかりだ。そしておそらく、ほぼすべての会話が中国語でなされている。あるいは、アメリカ合衆国に渡ってきた人々についての作品もそうだ。さすがに舞台はアメリカであるものの、やはり登場する人々はほぼ全員が中国人で、彼らは中国語でしゃべり続ける。そしてその全ての会話が英語に訳されている。そして時には地の文において、中国語の表現の直訳としか思えない表現が出てきはするものの、やはり英語で書かれているのだ。ここで我々は混乱してしまう。それは、文学と言語や国家は自然に結びついているものなのかという、意外に深い問いと関わっている。

(中略)

 ならばイーユン・リーの『千年の祈り』を、『老人と海』の中国版のように理解すればいいのか。ことはそう単純ではない。何しろヘミングウェイと違って、作者であるイーユン・リー自身が、成人してからアメリカにやってきた中国人なのである。すなわち中国人が、中国を舞台として、中国人について、英語で書いた作品なのだ。すると一つの疑問が湧き上がってくる。これは単に英語で書かれただけの中国文学なのではないか。それがたまたまアメリカの雑誌に載り、そしてアメリカで単行本化され、著者もアメリカに住んでいる、というだけで、本質的には中国文学だと考えたほうが、よほどすっきり理解できる気がする。

 けれどもこの仮説も簡単に崩れ去ってしまう。実は『千年の祈り』は、現代中国文学としては存在し得ない、ある性質を帯びている。それは何か。文化大革命から天安門事件までの中国の負の歴史と直接、交錯してしまったがために、社会の片隅に追いやられ、時には破滅する人々をイーユン・リーは作品で好んで扱っている。そしてこうした文学は、現代中国においては存在しえない。

https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/column/kojitokoamerica/27882

これは『千年の祈り』についてのコラムだけど、リーがどこにカテゴライズされるのかということにおいて色々と頷ける。『千年の祈り』については去年河出から文庫版が出たのでぜひいろんな人に手に取ってもらいたいよ〜。

リーの小説は読み始めるともう1ページごとに付箋を貼りたくなるくらいに惹かれる文章に溢れていて、全部頭にぶち込んで暗記して永遠に誦じられるくらいになりたいのだけど如何せん馬鹿なので叶わない。彼女の書く孤独の形が、悲しみの形が好きだ。息子を自死で亡くし、彼女自身もうつ病を患って自殺未遂を起こして入院している。そこから息を吹き返して、作家業を今も続けているリーのことを思うと涙が滲むのを禁じ得ないし、もう、生きていてくれるだけでいいんだよ、と言いたくなる。でも、それはきっと嘘。生きていてくれるだけでいいよ、と思う同じ心で、もっと彼女の文章が読みたいなと心から思っているから。リーと同じ時間に生きていて、リーが生きる時間と私の生きる時間が重なっていて本当によかったと思う。私が生きている間にあとどれくらいリーの小説を読めるだろう。できれば全作品が訳されてほしい。自分で勉強しろよという話ですが、翻訳家の篠森ゆりこさん、頑張ってください……どうか……全力で応援している人間がここにいます……。

 物語が頭の中にあることと、それを書くことはどうちがうのだろう。若いときはどう訊けばいいかわからなかったけれど、訊くべきだったのはこの質問だ。物語が頭の中にあるだけじゃだめなの? なぜ時間を割いて書き出すの?

 いまなら私にも彼女にも答えられる。私たちがどんな人間で、何を知っているかなんてことは、世間にとってはどうでもいいことだ。物語は、書き留められなければならない。そうする以外、どうやって復讐できるだろう。

イーユン・リー『ガチョウの本』p29.

@kyri
週末日記