今日は先日の日記でも書いたとおり、会社がブースを出展しているイベントの日。ということで、私は非番ではあったものの、一応準備を担当してきた立場だし、それに今日は暑い日だし、やっぱりお茶とか差し入れを持っていくべきだろうなということで、車を出してもらって行ってきた。イベント会場に行くと会社の人がわりと暇そうにしていて、あっそんな感じだったか、混雑になることをめちゃくちゃ警戒していたけどそんなでもなかったか、とちょっと安心。でもみなさん結構楽しそうにお客さんへの対応をしていてこれもちょっと安心。別にこのイベントに出展することもこの人たちに休日出勤してもらうことも私が決めたわけではないけれど、でも一応準備担当だったこともあり、やっぱり休日に出てきてもらうからにはそれなりにこの人たちにも楽しい一日になってくれたらいいなと思っていたので(まあどれだけ楽しかろうと仕事ではあるんだけど……)みなさん明るく過ごされていてとても良かった。別に会社の人たちは友達ではないけれど、こうやって休みの日とかにまで顔を合わせると、不思議と親しみを覚えるというか、やっぱりいろんなことを共有してきた仲間だなって思う。今月のイベントラッシュは始まったばかりだし来週はいよいよ私が出動することになるのだけど、まずは一つ、なんとかなってよかった。差し入れのお茶を渡して少し立ち話をして、少しお客さんの呼び込みをしてから帰った。
小川 寂しさこそがその人の本質で、その人が骨になったとき、魂だけになったときに、自分のものとしてあの世に持っていける最後のものじゃないかなと思っています。人によっては、それは「怒り」だという人もいれば「愛」だという人もいると思いますが、私にとっては寂しさなんだということが、小説を書いていくうちにだんだんわかってきたんです。現世で出会った人たちとさよならして、自分のことを知っている人が誰もいなくなったあの世で、自分が自分であることを証明してくれるものが、私にとっては「寂しさ」なので、主人公のサラリーマンのような人が大好きなんです。
小川洋子・東畑開人『孤独をのぞき込む 秘密の読書会』 pp.48-49.
いろんな本が話題に出てくる本を読むと絶対取り上げられている本のどれもこれも読んでいないという事態になるのだけど、この本も例によってそうで、だけどこの本はそれらの本たちを読んでいなくても、それは補助的なものであって主題はもっと普遍的な「孤独」についてなので、全然ついていけないとか、置いていかれるみたいなことはなかった。でも読んでおいた方がいいというのは絶対にそうです。テネシー・ウィリアムズの『ガラスの動物園』とかは大昔に古本屋で買ってどこかに積んでいるのだけど行方がわからない。村上春樹が『ノルウェイの森』を書く前に「螢」という短編を書いていたことも知らなかった。
「ロンリネス」と「ソリチュード」についてはイーユン・リーも同じことを言っていたなあと思いつつ、では私は今孤独だろうか? と考えてみるとき、よくわからないことに気づく。だけどこの本に書かれているように「ソリチュードとは実は安心な他者を得てはじめて可能になるもの」であるならば、今の私のそばには家族がいて、それは確かに安心な他者で、であれば私は少なくともロンリネスではなくソリチュードに身を置けていると言ってもいいのかもしれない。日記であれ小説であれ、ものを書くときには一人でなくてはならないし、今これを書いている私も当然一人で部屋に閉じこもって書いているし。だけど大阪に一人で住んでいたときは確かにもっと「私は一人なんだ」っていう実感がすごく身に迫ってきてしんどいときもあった。「さびしさはめぐる」っていうエッセイを書いたときは確かに「寂しさ」とともに生きているような感覚もあった。でも、故郷に帰ってきて、その「寂しさ」という感覚、感情、状態から、すごく遠ざかってしまったのも事実であるように思う。
どっちがいいのか、判断がつかない。故郷に帰ってきて確かに私は安心して、安定して、穏やかな生活ができていると思う。だけど、大阪に住んでいたときの、あの、りんと研ぎ澄まされたような孤独の感覚は、あれがなくては書けないであろうものも確かにあっただろう。事実、大阪に一人で住んで、そしてコロナ禍で隔絶されていた2020年に書いたものはどれも冴え渡っていて美しいものたちだった。あの感覚は、多分この故郷にいては、永遠に戻ってこない。だけど、あの感覚を求めてもう一度都会で一人で暮らすことへの自信が、どうしても出ない。となればこの故郷で、あの「寂しさ」「孤独」の感覚を再現するしかないのだろうけど、どうしたらいいのかちょっとわからない。あのコロナ禍に感じた「寂しさ」は、あの年にしかなかったもので、もう二度と同じものは手に入らないようにも思う。
でも、両親も私も老いていく。いずれは死に別れる日が必ずやってくる。そうなったとき、きっと私に到来するのは圧倒的で耐え難い「寂しさ」だろう。それはきっと「ロンリネス」の方だ。今まで「ロンリネス」の方をあまり感じることなく生きてきたから、きっと、必ず、悲しいし、しんどい。私はいつまで、今ある「ソリチュード」の中に身を置いて生きていけるだろう。
最近はいくらでも不安の種ができて、一つ不安が消えればまた新しい不安の種が蒔かれてしまう。先週のJ庭もすごく不安だったし、その不安が消えれば今日のイベントへの不安がやってきて、その不安も今日で消えれば今度は来週のイベントへの不安がやってくる。そして通販で発送した本たちもちゃんと届いてくれるかという不安も新たにやってくる。夏の終わりから常に不安に追い立てられている。心穏やかに過ごすには来月まで待たないとだめなんだろうか。