いつも日記は21〜22時くらいに書くのだけど、書きたいと思う出来事は大体日中に起こるもので、日中はもうすぐにでも日記を書きたい! と思っているのだけどそんな時間もないし、書く時間があったとしてもそもそもまだ考えや言葉がまとまっていなかったりして書こうと思っても書けない。でもそうしたらそのときの感覚というのは頭の中で言葉が錬成されていくのに反比例してホットさが失われていく。そのバランスが難しいなといつも思うのだった。そしてこの日記は主に週末に書いているのだけど(それは平日は疲れているというのもあるし、書くに値する出来事が平日にはあまり起こらないというのもあるし)そうすると前回の日記と今回の日記で私の感情の流れに断絶ができてしまって、この日記はいつまでも私という主人公の連続性を獲得することができないでいる。日記というものは毎日書いて感情であれ出来事であれのダイナミズムを見ていくものでもあると思うのだけど、それが最初から私の日記では失われているような気がする。私の感情も、出来事も、この日記上ではある一定以上の強度を持たない、そんな気がする。でもそのくらいが気楽でいいのかもしれない。どうせ私はいつも、どこか浮遊するように生きているのだし。
地元のミニシアターがやっている濱口竜介特集上映もそろそろ佳境を迎えつつある。昨日は『ドライブ・マイ・カー』を観に行って、今日は『ハッピーアワー』を観に行ってきた。ちなみに明日は『親密さ』を観にいく予定。『ハッピーアワー』はこの特集上映の中でもぜひ観たいと思っていた作品で、今回念願叶って観ることができて本当によかった。観る前は5時間の映画か〜寝ちゃったら勿体無いな〜と呑気に思っていたのだけど、始まってみたらそれは全き杞憂だった。すごく面白かった。ハッピーアワーというからハッピーな映画なのかと思っていたけど全然ハッピーじゃなくて面白かった。いや、あれもひとつのハッピーの形ですよという提示だったのかもしれない。あるいは、色々あったけどあのときの私たちはハッピーだったよねということだったのかもしれない。それとも、ただの意地悪なタイトルというだけだったのかもしれない。とにかく5時間、全く飽きなかった。この4人はどこに行き着くんだろうと、きっと彼女たちもわかっていないだろうその未来の先を見てみたくて、目が離せなかった。彼女たちが向かっているのは破滅かもしれないし、希望かもしれないし、あるいはそのどちらでもない、しょうもないものだったのかもしれない。でもそこには時間があった。彼女たちが息をして、歩いて、話して、生きた5時間が確かにあった。その時の流れを感じることができたのがいちばんよかったような気がする。とりあえず自分に依頼されたイベントを抜け出してしまう鵜飼さんは絶許です。
濱口作品を観ていて思うのは、お芝居や演技というのは、そして、私が学生時代にやっていた演劇というのは、私が思っているよりももっともっと楽しいものなのかもしれない、楽しかったのかもしれない、ということ。私は高校と大学で演劇に触れていたけど、大学に入ってからの演劇は自分よりもずっと才能も能力もあるひとたちに囲まれて、ひたすら、劣等感や惨めさと戦うものだったように思う。正直、苦い思い出の方が多かった。苦くて辛くて悔しくて、そんな感情ばかりを鮮明に覚えている。大学時代に役者として舞台に立ったのは一度だけだったけど、それも今思い返しても楽しかった記憶より辛かった記憶の方がずっとずっと強い。お芝居すること、演技することは私にはずっと辛いことだった。だけど濱口作品を観ていると、その豊かな語りは、語られることの喜びに満ちていて、こんな台詞だったなら、私も口に出してみたかったなとか、この台詞を抱えて相手と話してみたかったな、とか、そういうことを思うんだった。映画自体の筋書きはハッピーとは程遠くても、演技すること自体に対するハッピーは間違いなく存在しているのだった。だから、『ハッピーアワー』の4人のことをとても羨ましく思う。得難い経験だっただろうなと思う。もちろん難しかったこと辛かったこともたくさんあっただろう、だけど画面の向こうにいる彼女たちからは紛れもない喜びを強く感じた。私もお芝居を通してそんな喜びを掴んでみたかった。少しだけ心がじくじくするけれど、だけど素直に清々しくもあって、そんな清々しさを感じるということは、私自身がもうお芝居からはずっと遠ざかったところにいるからなんだと気づいてちょっと切なくもなる。全ては通り過ぎていく。苦くても辛くても悔しくても、嬉しくても満ち足りても幸せでも、平等に通り過ぎていく。
濱口作品の魅力はその豊かな語りだろうなと思う。みんな饒舌に、豊かな語彙で、豊かな感情を語る。私は話すのが下手で、話すよりも黙り込む人間だから、役者たちの姿がただ羨ましくて、眩しい。不器用でも、伝わらなくても、反発されても、コミュニケーションを諦めない姿勢、自分の感情を表現することを諦めない姿勢、私にはないそのひたむきさが眩しい。
『ハッピーアワー』を観ていると、私の人生もまた、どこへいくんだろうと思わずにはいられなかった。大阪ではもう生きていけないと諦めて、地元に帰ってきて、映画を観て本を読んでたまに創作をして家族と静かに暮らして、だけどそれでいいのだろうかと、いつも思っている。私はもう34歳で、だけど、まだ、34歳だ。いろんなことがままならない。いろんなことが怖くて仕方がない。いろんなことを無理だと思う。もう奮い立つことなんてできないと思う。だけど、それでも私はまだ34歳で、もう全部が嫌だと投げ出すにはあまりに若い。できれば40歳くらいで死にたいと今も思っているけど、40歳で死ぬにしてもあと6年あるのだ。「今から私の人生始まったような気がする」と語り、フェリーから大きく手を振る純の姿が目に焼き付いて離れない。私もあんなふうに、今からが私の人生だと、これからそんなふうに思える日が来るのだろうか。そんなきっかけは訪れてくれるのだろうか。あるいは、「訪れてくれる」と、受け身でいるなら一生変わらないままだろうか。
私はどこにいくんだろう。