ずっとアカデミー賞のことを考えていた。
私はアカデミー賞のことが結構好きだ。前提として、私はものすごく権威主義的なところがあって、アカデミー賞みたいな大きな賞は大体好きなのだ。アカデミー賞取ったから、という理由で観た映画はたくさんある。逆に言えばアカデミー賞にノミネートされなかったとしたら見向きもしなかったであろう映画がたくさんある。毎年ショートリストが発表されるとわくわくするし、日本の映画がノミネートされていると嬉しくなる。今年は『君たちはどう生きるか』と『ゴジラ-1.0』がどちらも受賞となってやっぱりとても嬉しかった。アカデミー賞という賞の中身がどうであれ、ノミネートされたからには賞をもらうに越したことはないと思う。素直にとてもおめでたいと思った。
けれど、毎年それだけでは終わらないのもアカデミー賞である。例えばウィル・スミスの平手打ち事件なんかは記憶に新しいけれど、そんな派手なことがなくてもSNSでの反応や何やかやで毎年傷ついている。今年こそはそんなことがないといいなと思ってもなかなかそうはならないもので、今年は主にロバート・ダウニー・Jrとエマ・ストーンの受賞時の振る舞いに結構傷ついた。というか、多分SNSの反応に傷ついた。でもSNSで騒がれるのは騒がれるだけのことをしたからそうなのだ。二人とも、プレゼンターが彼らじゃなかったとしてもあんな対応だっただろうかと考える。それは考えても仕方のないことなのかもしれない。でも、きっと違ってたんだろうなあ、と思う程度には、私は傷ついてしまった。
もうすでにSNSでいろんな人がさんざん言ってきたことなので私がこれから書くことにも新しいことは何もないが、二人とも、明確に、キー・ホイ・クァンとミシェル・ヨーが嫌いだったから、あんな対応をしたのだとは私は思わない。もしも明確に嫌いで、それが態度に出てしまったんだとしたらそれはもう問題外で話にならない。ただ、「見えてなかった」というのは確実にあるだろう。そして、無意識に、彼らのことは蔑ろにしてもいいとジャッジしたからこそ、あんな対応だったのかもしれない。なぜ蔑ろにしてもいいかと言えば、それはもしかすると彼らがアジア系だったからかもしれない。全ては分からないことだ。私がここに書くことは憶測にすぎない。さっきtwitterを見たらミシェル・ヨーが自分のインスタで「エマへのトロフィー贈呈は彼女の親友であるジェニファー・ローレンスから渡してもらいたかった」という旨の釈明? があったらしいというツイートを見た。私はヨーのインスタを見てないので本当かどうか分からない。でもこんなふうに本当のところは分からない。でも思ってしまうのだ、世界が注目してるイベントでの振る舞いなんだから、もうちょっと上手くやってほしかったなと。こんなことで傷つけられたくはなかったなと。
合衆国という文化的な風土は、とりわけマスメディアにおいては、芸術作品というものが必然的に収まる純粋の他者性ともいうべきものにいたって鈍感なのである。あらゆる優れた作品は、それがどれほど身近に感じられる主題と戯れていようと、わたくしたちの誰にとっても、「純粋の他者」として姿をみせるもののはずではなかろうか。そして、田舎者と呼ばれる人種は、「純粋の他者」性というべきものを、既知の領域にとどまったまま考えようとする者たちなのだ。
全ての白人のひとがそうとは思わないけれど、今回のことに限って書くなら、RDJとエマ・ストーンの自分の領域というものは狭いのかもしれない。自らの領域、それはまなざしの領域でもあるし、想像力の領域でもある。引用した蓮實さんのコラムは今私が書いていることとはちょっと論旨がずれると思うけれど「純粋の他者性」という言葉はそのまま当てはまるかと思ったので引いてみた。純粋の他者は誰しもに存在する。自分以外は他者である。けれど、その他者を、他者とすら思えないことはあり得る。それはつまり同じ人間として見ていないということだ。今回のRDJとエマ・ストーンにとってプレゼンターの彼らが「蔑ろにしてもいい存在」として(たとえ無意識にでも)映ったのだとしたらそれは同じ人間として見ていないということだ。
まだ日本では公開されていないけれど、今年の国際長編映画賞は『関心領域』が受賞した。これはナチス時代にアウシュヴィッツ収容所の隣で平和な生活を営むルドルフ・ヘスの家族が主人公だ。人種(というのも存在しないのだが。人種はないが人種差別はある)の扉一つ隔てればたちまち無関心が姿を現すのはホロコースト時代も今も変わらない。この『関心領域』が受賞したことは皮肉にも今年のアカデミー賞を象徴する出来事になってしまったかもしれない。あるいは、この作品が受賞したのも一周回って壮大な無関心がそうさせたことなんだろうか?
そして、既知の領域、また白人世界の領域から出られなかったからこそ、数十万人を一瞬で殺した原爆をテーマに据えた『オッペンハイマー』が作品賞を取るということがどういうことなのか、主にアジア人(日本人)からどう見られるか、ということに想像力が及んでいないのかもしれないのだった。
とは言え、私は『オッペンハイマー』観に行きます。こんなことを書いたが多分絶対観に行きます。なぜならキリアン・マーフィーが好きだから。そしてひとえに権威主義のミーハーだから! 自分で書いてて嫌になってきたな〜でもこんなところで見栄を張るというか嘘をついても仕方がないので正直に行こうと思います。『オッペンハイマー』楽しみです。なんでこんな終わり方になってしまうんだろう?