日記を書いてない間も本は読んでいたので、今日は読んだ本の引用だけでやめようかな、どうせ書くこともないし……と思ったのだけど、引用だけの日記というので思い出すのは二階堂奥歯の『八本脚の蝶』だ。彼女が心を病んでいくにつれて膨大な書物の引用に日記が埋め尽くされていく。自分の言葉を見つけられなくなっていったのだろうと思う。心が腫れ上がると言葉が消える。それは自分がそうだったから、二階堂氏もそうだったんじゃないかな、と察する。だけど私は不謹慎だから、あの、膨大な書物の引用なんかを目にすると、この人はだから死んでしまったんだろうなと思ったりした。これは頭が重すぎる。ひとりの人が抱えられるものじゃないんだろう、と思う。あの本は河出文庫版を買ったのだけど、本棚のスペースを空けるために売ってしまった。今になって、そのことを少し後悔している。先日駅前の古本市に行ったときにハードカバー版を見つけたのだけど、やっぱり本棚のスペースとを天秤にかけて買わなかった。そのことも少し後悔している。いずれ時期が来たら書い直すかもしれない。
最後の魔法のおかげで世界はとても綺麗です。
私は生きている間。時々、一瞬だけとおくをかいま見ることができました。
結局そこに行くことはできませんでしたが、でも、ここも、とても綺麗です。
明日がこないからです。
これが最後の夜だからです。
なぜか文字化けしている。
ずっと台風の動向とtenki.jpをウォッチしていたのだけど、1日には熱帯低気圧に変わるとのことで、ぎりぎりで東京、行けるかもしれないな…! と勇気を出して切符を買った。でも熱帯低気圧に変わるというだけで引き続きどこもかしこも大雨は続くらしく、行ったはいいが帰れないということも絶対起こらないとは言い切れなくて、もはや賭けです。これで大雨により今日は臨時休館ですと言われる可能性もゼロではなくてやっぱりもはや賭け。でもそれでも行きたいCLAMP展。私に……私に阿修羅と神威を拝ませてください……。
一緒に行く予定なのはジュンブラでも売り子をやってくれた高校時代の演劇部同期なのだけど、去年私がスパコミに一般参加したときに付き合ってもらってからなんとなく交流が復活している。いや、今までも年末年始になればみんなの帰省に合わせて会っていたりしたのだけど、こういう何でもない日に会うというのはもう何年振りのことかわからなくて、縁というものは不思議だなと感じ入る。私は今となっては本当に友達がおらず、いないのだけど、でも他方でこういう高校時代の同期という古い付き合いは残っていて、そのことを貴いと思う。「自分からアクション起こしていかないと縁ってすぐ切れちゃうからさ」と高校同期の彼女は言ったけれど本当にそうで、本当に好きなら、この関係を切りたくないなら、それ相応の努力をしなくてはならない。だけど、その一方で、あなたのことは好きだけど今はどうしても会う気になれないという関係もあって、そのときは、自分の気持ちを優先するしかないんだろうなという気もしている。優先して、その結果関係が本当に終わってしまったとしても、それはしょうがないんだろう。終わってしまった人間関係について「役目を終えた」のだという考え方をインターネットで見かけて、すごくいいなと思ったのを覚えている。私が通り過ぎてきたいくつものいくつもの人間関係たちはただ無為に死んだのではなくて、私に必ず何かをもたらして、それぞれに役目を終えて去っていったのだ。「今は会えない」という人間関係もまた、かつて測ることができないほどに大きな豊かさを私にもたらしてくれたのも事実だ。そしてその事実さえあれば、それでいいような気もするのだ。
明日は地元も大雨らしいけれど、祖母の誕生日プレゼントを買いに行かなくてはならない。そのついでに映画を観て、眉サロンに行く予定。