あとで電話して、というのは祥智の口癖のようなもので、彼女は自分が自分の頭で覚えて居られない分を他人に任せてあとで電話で確認するという手法をよく取る。その手法に付き合わされるのはほとんどいつも私で、このときも私はまたか、と思った。
傘に雪が積もっていく。ふたりでこの雪道をぼくぼくと、足をごぼらせながら歩いていくうちに傘にも雪が積もっていくのである。ひらひらと右、左に揺れながら落ちてくる牡丹雪を傘までもが律儀に受け止め、積もらせていくのである。どうしてこんなに傘は重いのだろうと思ったときには積雪1センチ。そして、その傘をくるくるとまるでピエロが傘でボールを転がすように雪を振り落していくのも祥智の癖である。その被害はたいてい隣を歩く私が蒙り、私のコートは横からも雪にまみれる。
「電話してしゃべるほどのことはもう無いよ、祥智」
私はとりあえず言ってみる。
「あるわ、きっとある。今思い出せないだけで絶対にあるの。そういうもんでしょ、真琴だってあたしと別れてから『そういえばあんなこともあったな』って、思うことはあるでしょ? あたしはそれが聞きたいの。大事なことは、ちょうどいいときには出てこないの」
祥智はくるくる傘を回しながらどこか誇らしげに答える。私は肩を竦めて、くるくる回る祥智の傘の隣で、自分の傘には黙って雪を積もらせている。
「祥智」
「なに? 思い出せた?」
「彼氏できた?」
「できない」
「そっか」
そうして共犯者の感覚を作り上げていくような気がしている。それもまた、雪がこの傘に積もっていくような、心にどんどん重みを増やしていくような作業に思う。
私に彼氏ができないことを、そして祥智に彼氏ができないことを、互いにどう思っているのだろうと思う。
私と祥智は気付けばこうして一緒にいて、同じ中学で、高校で、何故か大学までもが同じになって、だけどそれをことさら話題に出すこともなく、私たちはここまで来た。こうして雪の降りしきる道をふたりで歩くということ、夏の暑い日に汗を流しながら寄り道にアイスでも買いながら歩くということ、秋の肌寒い日に足で落ち葉を蹴りあげながらだらだら歩くということ、春の陽気が心地よい日になんとなく斜め上を見上げながら歩くということ、それらを、疑ったことはない。なかった。
「ってか、そんなことあとで電話とかしてきたりしないでよね、真琴」
「せんよ」
「じゃあなんでそんなこと聞くわけ」
「わからん。ちょっと、頭に思い浮かんだだけ」
「最悪。そういうことは全然大事なことのうちには入らないから。わかった?」
「はいはい」
花びらのような雪が降る。ひらりひらりと雪が降る。見上げれば灰色だった空はいつの間にか暗くなってしまっていて、雲の向こう側で太陽が沈んでしまったのだということを知る。そうすると少し濁った黒い空に雪はまるで埃が降ってくるように映る。それはとても汚らしい光景だ。夜になると埃が降るだなんて。だけど朝になってもしも晴れたら、それは何事もなかったかのように青白く光り、あの埃はどこに行ったのだろうと私は首を傾げるのである。
そんな雪だ。祥智がくるくる回して吹き飛ばしている雪は、今は埃にしか見えない。
「祥智」
「なに?」
「別に彼氏なんて作らんでもいいよ」
祥智が傘を回す手を止めた。私は祥智を見ないままでいる。祥智は私を見ているのがわかる。頬のあたりで彼女の視線を受け止めている。
「それは、自分に対する言い訳でしょう、真琴」
自分に彼氏ができないからってあたしを巻き込むのはやめて。
祥智は言った。
「うん」
そうだね。
私は答えた。
(違うんだよ、祥智)
私と祥智は、明日もここを歩くだろう。ふたり学校で顔を合わせ、同じ授業を受け、違うゼミへ向かい、違うタイミングで図書館に潜り込んだとしても、明日もこうしてふたりで学校から帰るだろう。明日もし雪が降らなかったとしても、きっと祥智は、傘を持ってくることだろう。お気に入りの、真っ赤な傘を。
ここを歩くということが、祥智とここを歩くということが、私にとっては
「真琴!」
はっとして、顔を上げて、祥智の方を振り返った。
彼女は目の前に差し掛かった信号機を指さして、横顔に見える目を輝かせている。
「見て、信号のあたりだけ、雪がとてもきれいね!」
赤になり、青になり、黄色になり、三色に色を変えていく雪が、そこにだけ存在していて、祥智は、わざわざそれを指さして私に教えてくるのだった。ああ、と思う。こういうことを、こういうことから何かを連想して、私は彼女にとっての「今思い出せなくてもあとから思い出す大事なこと」を作り上げようと決めた。
ああ、と思う。信号機のあたりを飛んだ雪は、まるで花びらのようだった。
そして差し掛かる街灯の下を降る雪も同じようなもので、局所的に発生した花びらの群れに祥智は飛び込んでいく。
私は、この光景を、どうやって覚えていけばいいだろう。
(祥智、彼氏なんて作らなくていいよ)
彼女には一蹴されてしまったけれど、本当は、これを、電話越しにでももう一度言いたいと思う。私は私を置いて、また傘を回し始めながら街灯の下へと飛び込んでいく祥智の無邪気な後ろ姿を見送っていく。
好きにやりなよ、ここで見ているよ。
「まこと!」
彼女が呼んでいる。街灯の下で、光る雪を本気で花びらと思い喜んでいる彼女が私を呼んでいる。祥智と同じ場所に立つのは、ずっと私がいい。そこに、同じ街灯の下に入れてくれるのは、私以外に居なければいい。好きにやりなよ。本当は好きにやってほしくない。私が望むように、好きにやってほしい。それは、つまり、
Call me / 20160102
好きにやれ。あなたの夜に降るそれらすべてはひかる花びらだから。
山中千瀬
#2015年に好きだった短歌で書いた小説
百合詞華集『きみとダンスを』
ナチュラル・ボーン・ウィナーズ / 山中千瀬 より