選挙速報のテレビからちょっと遠ざかって日記を書くことにする。私の地元は代々超がつくほどの保守で、投票が締め切られてから秒で自民党の人の当確が出るくらいの自民党一強みたいなところがある。なのでそんな地元で野党の人を応援しようと思うと必然的に負け戦にしかならないし、今回もまあ負け戦だったのだけど、でもそれでめげてしまっては本当に終わってしまうので、これからもこつこつと自分の一票を大事にしていかなきゃならないなと決意を新たにした。それにしても、保守の人たち、というか、与党支持の人たちって、なんで与党を支持してるんだろうなと思うとちょっと不思議で、考えていたのだけど、自分が入れた人が(高確率で)当選するであろうことから自分の票の力を実感したいのかな。実感したい、というか、手応えが欲しいのかな。それなら野党を支持してる私にも欲しいですけど、手応え……でもこの手応えを感じられない選挙ってまあ、確かにしんどい。与党を支持する人たちはこのしんどさに耐えられないというのもあるのかもしれない。いや、もっと政治的信条がちゃんとあって与党を支持してる人がいたらごめんなさい。ともあれ、まだ開票は全部終わったわけではないので、動向を見守ろうかと思います。
昨日の日記でも書いた通り、今日はオアシスではなくて『ナミビアの砂漠』を観に行ってきた。
仮に、カナを見て救われる人、自分はカナと同じだと思う人がいるとするなら、その人はそもそも映画とか観ないんじゃないかなと思った。だってカナも自分で言ってる、「映画なんか見て何になるんだよ」って。自分もカナの気持ちがわかると言うだけなら簡単だけど、「映画を見る側の人」である限り、カナへの接近には限界があるような気がした。カナの衝動性、怒りに触れて、それを全く理解できないとは言わないけれど、それでもカナは私じゃなかった。「映画なんか見て何になるんだよ」と言うカナはどこまでも他者だったし、実際、そこまで共感を求めたキャラクターでもなかったような気がする。安易な共感なんて全部退けてやる、くらいの気概みたいなものはあったように感じたけれど。あと、なんだかんだでカナがキレる相手は彼氏だけで、カウンセラーとか隣人相手には大人しくしてるところも、それは結局彼氏に甘えてるだけだよねと思ったりもした。若い。総じて若かった。がゆえに、私はこの映画のターゲット層では無くなってしまってるんだろうなと言うことかもしれなくて、自分がどうしたってカナと比べるともう若くないことにちょっと寂しい思いをした。もし私が10歳若かったらカナに対してもっと違う感情を抱いていたかもしれない。
だから本当にカナみたいなキャラクターを求めていて、カナの姿に救われるかもしれない人にこの映画が届くことはないんだなということを考えていた。そういう人はどこまでも映画という範囲の外にしかいない。そう思うと、この映画は成功してるのかどうなのかわからない。この映画にとって、「映画を観る側の人」からの「共感」は果たしてどれほどの意味があるのだろうか。あるいは、そうやって集まった「共感」をまとめて一蹴するところまでも含めてこの映画が為したことだろうか。一蹴……してたかな……? あ、河合優実はすごくよかったです(そんなとってつけたように……)
投票行って映画を観た以外の時間は今日も今日とてずっとオアシスを聴いてる。やっぱり確信したけれど私はノエルが歌っている曲の方が好き。あとドキュメンタリーの『supersonic』と『as it was』がめちゃくちゃ気になっている。アマプラは見放題には入ってないみたいだけど、お金、出してみようかな……なんかどんどんはまっていってる……。