面接の準備をしなくてはならないのだけど嫌すぎて朝から本を3冊も読んでしまった。嫌すぎることがあると他のことがめちゃくちゃ捗る。こういう、現実逃避のために読書をするのはやめなさいよと思うものの読書をしないと心の安寧が保たれない。昔から現実逃避のために読書する癖、あったな……。思えば今年の前半は原稿をやりたくなくて読書をし、後半は試験勉強をやりたくなくて読書をしている。いいのか悪いのか。あとはずっとオアシス聴いてる。先月映画を観に行ってからはや1ヶ月、まだオアシスばっかり聴いている。というかオアシスしか聴いてない。今日アダムエロペからオアシスロンTが届いてご機嫌です。
山内マリコ『逃亡するガール』はまさに富山が舞台の小説だとは聞いていたものの読んでみてびっくりした。まさに私が知っている富山市だったからだ。駅ビルのマリエ1階に入っているスタバ、マリエの反対側に最近できた新しい駅ビルのマルート、道路を挟んで向こう側にある一体いつから建っているのかわからない商業ビルのCiC(シックと読みます)(ちなみにここに入っている多目的ホールみたいなところで同人イベントが昔は開催されていたけど今はどうなんだろう)、そして私がほぼ毎週行ってる図書館がある西町(後述する世界史の先生に「今はもう廃れとる」と言われていたけど意外に今でも人はいる)まるで富山市のガイドブックを読んでいるみたいだった。
これ以降ちょっとネタバレします。
主人公が通う高校にいる世界史の先生は富山弁がものすごくきつくて、そのどぎつい富山弁がそのまま小説に書き写されていて、これ、ネイティブの私なら完璧に脳内で再生されるけど他県の人が読んだら理解できるのか、いや、それ以前にそもそも読めるのか、そんなことを考えてしまうくらいに富山弁というのは文字に起こすと可読性がめちゃくちゃな言語だった。ネイティブの私が読んだらすごく面白いのだけど、他県の人にこの面白さはきっと伝わらないだろうな……と思うと、あえてこのゴリゴリ富山弁を話す世界史の先生を登場させた山内マリコの覚悟みたいなものが見えてくる。山内マリコは『ここは退屈迎えに来て』からずっと心に富山があって、だけどいつも「ある地方都市」と言葉を濁して小説に入れ込んでいたから、この『逃亡するガール』で真正面から逃げも隠れもせず富山市のことを書いたことには驚きもしたし、だけど嬉しかった。『ここは退屈迎えに来て』から読んでいるけど地方都市の描かれ方はいつも「しけてる」とか「寂れてる」とかそれこそ「つまんない」というもので、マリコ氏的には富山のこと好きじゃないのかな……と勝手に推察して勝手に切なくなっていたりしたので。まあ著作を何冊か読んだら決して富山のことが嫌いじゃなくてちゃんと好きなんだというのはわかるのだけど、それにしたって「しけてる」「寂れてる」「つまんない」のオンパレードだったらさみしくなります。ちなみに映画『あのこは貴族』で水原希子演じる美紀が帰ってくる地元は私が生まれ育って今住んでる町です。
「いまみんなが住んどる富山ちゃ、中心みたいなもんはあんまないねか? 昔は富山駅が中心やったろうし、あんたらちみたいな高校生は電車通学の人もおっから駅にも行くかもしれんけど、先生らちみたいに車乗っとったら駅にちゃわざわざ行かんねか。富山の中心市街地いうたら西町になっけど、廃れしもて、行く人おらんやろ? 今やったらファボーレとか高岡のイオンとかコストコとか、そいとこが中心になるがかもしれんちゃね。
ほやけど古代ギリシャちゃ、いいがになっとって、街に中心があったん。みんなパルテノン神殿ちゃ見たことあっけ? ギリシアゆうたらパルテノン神殿なんやけど、知っとっけ? あんたらちアテネ・オリンピックのときまだ生まれとらんかったから、見たことないかもしれんね。柱がたくさん立っとる白っぽーいやつながやけど、どんなとこにあると思っけ? あれ実は、小高い丘みたいなとこに立っとんが。あとでGoogle Earthでも開いて見てみられ」
山内マリコ『逃亡するガール』p.5.
引用してみて改めて思ったけどものすごい富山弁だ。山内マリコの中に今でもこんな富山弁が生きているのだと思うとやっぱり嬉しい。それはそれとしてこれちゃんと他県の人に意味通ってますか?
そしてこの世界史の先生、中盤で現在のガザ虐殺のことについて授業で触れ、それを聞いて主人公が驚くというシーンがある。
「ガザちゃ可哀さげなとこで、エジプトの管理下やった頃に、パレスチナ難民らちがわーっと流れて行ったから、人口密度がもっすごい高いがね。しかも2007年、自治区の周りにイスラエル軍がいきなり分離壁いうもん作って、覆っしもたん。地区を丸ごと封鎖すっちゃ、中におる人たち、嬲り殺しにするいうことやねか。酷かろ? ヨルダン川西岸地区の分離壁に、バンクシーいう人がよお来られて、絵ぇ描いとられっちゃ。あのっさん、イギリスの人ながね」
山内マリコ『逃亡するガール』p.73.
そして美羽は自分でインターネットやSNSを使ってガザのことを調べて、その窮状に愕然とするのだけど、その後いろんなことがあって、同じ富山県民だと思っていた比奈が実は今年の能登半島地震で甚大な被害を受けた珠洲の子だということを知り、彼女から珠洲の惨状が写された写真を見てまた愕然とする。
あたしはなにも言えず、比奈の腕をさするしかできない。自分の無力さ、無知さに愕然とする。能登の光景を、ガザと間違えたことが恥ずかしくて仕方ない。遠くの戦争にはTikTok越しに寄り添って、となりの県の災害がまるで見えてない自分がかっこ悪すぎた。
元日に起きた能登半島地震のとき、もちろん富山もけっこう揺れた。けど、うちは山に近くて地盤が固いのか、部屋の本棚にあった教科書が何冊か倒れただけで、グラス一つ割れなかった。地震当日は津波が来るかもしれないと怯えてたけど、次の日になるとクラスのグループLINEに被害報告の写真が飛び交い、なんか盛り上がって、そのうち日常に戻った。能登で避難生活を送っている人のこともしばらくはニュースで目にしたけど、最近はもうほとんど聞かない。だから、まだ半年ちょっとしか経ってないのに、もう忘れかけてた。
「復興、全然進んでないんだよね。なんかちょっと、見捨てられてる」
そんなことないよ、という言葉を呑み込む。自分だって、もう忘れていたくせに。
山内マリコ『逃亡するガール』pp.110-111.
これはまさにそうで、今富山で生活してる人のほとんどに当てはまることじゃないかと思った。かくいう私も、地震が起きて一週間ほどはこの地震のこと記録しなくちゃと思ってこの日記でも朝刊の一面のフレーズを書き残していたけれど、朝刊の一面から地震のことはそのうち消えてしまって、テレビのニュースを見ても能登が取り上げられることは減って、しばらくはそのことに危機感を覚えてもいたけれど、今じゃもう全然、普段通りの生活に戻ってしまっている。まるで能登ももう元通りなんだと言うみたいに。だけどそれは違うのだ。災害は今も続いてる。
だけどマリコ氏が書いてるように、私も能登半島地震があってから、この災害のことを差し置いてガザのことばかりに心を寄せようとするのはおかしいだろうとも思っていて、それはとても難しいのだけど、結局は自分の有限なエネルギーと興味関心をどこに振り向けるかの話なのだけど、でも震災直後にtwitterで見かけた「みんな能登のことばっかりでガザに目を向けないのはなんでなのか」という誰かの怒りのツイートが未だに引っかかっていたりする。いや、自然なことだろ、と正直思った。近くに目を向けないで、じゃあ何を見ろって言うんだと思った。でもこれについては私もまだ落とし所がわかっていなくて、すごく居心地が悪いから、ガザと能登の両方に寄付をしたりすることでその居心地の悪さを逃したりしている。何かいい方法はないのかな。
この『逃亡するガール』、こないだの日記にも書いたようにサイン会の整理券ももらってるので、私は本人を目の前にすると何も喋れなくなる人間ではあるけれど、できれば思ったことをちゃんと伝えたいなと思ったのだった。あと『あたしたちよくやってる』が好きですってことも言いたい。なんだかんだでずっと読んでるマリコ氏で、同郷であるということが本当に嬉しいので、その感謝を伝えたいけれど、どうなることやら……