中村佑子『マザリング 性別を超えて<他者>をケアする』は母になった人、ならなかった人、なれなかった人の多様な語りが読めるのかなと思って手に取った本だったけれど、確かにそうだったのだけれど、中村自身が母になった人であったので、自身の妊娠・出産時の体験や感覚、赤子の娘と二人きりでいるときの世界に膜が張ったような感じ、など、結構スピリチュアルに書かれていて(スピリチュアルというのはときに嫌な印象を持たれがちな言葉ではある)かつ、他の女性たちへのインタビュー集という体を取りつつも中村自身の「私はこうだったのだ」という主張がちょっと強めに感じられて、そして私はこのとおり妊娠も出産もしたことがない身なので中村の書いている感覚が1ミリもわからず、久しぶりにこれはnot for meな本だったな……と思っているところ。実際に妊娠や出産を経験した人、関心がある人、には良い本なのかもしれない。私みたいな人間は「どうせわかりませんよ、すいませんね、ケッ」みたいな、読みながらちょっといじけてしまう。先日の映画『リッチランド』を観に行った日の日記で「完全に透明な目で映されたドキュメンタリーは存在しない」と書いたけれど、こういう本においてもそうで、母になった人ならその立場、ならなかった人ならその立場、と、結局自分の属性でスタートの立ち位置はもう決まってしまう。だから同じ母になった人の語りに対しては共感して、言語化されない領域にあった互いの感覚を一緒に探り合うこともできるけれど、能動的に母にならなかった人に対しては理解はするもののでもどこかでやっぱり……と言いたくなることがある。これがもし母にならなかった人が書いたルポ本であったとしたらまた違う視点であったのだろうし、大事なのは、そうやって違う立場の本を増やしていくことだろうと思う。とはいえ、not for meだったな……とは思いつつ、悔しいので頑張って読んでいる。
何か聞いておきたいことはある? と聞かれたので、やめるタイミングと答えると、そうだよねえと先生は笑った。だけどこの先10年くらいもずっと妊娠の予定はないの?
ないですね、と答えると、先生はそっかと言った。でもまあ、何が起こるかわからないからね。いつか、あ、妊娠したいな、って思うこともあるかもしれないし。でもピルを飲んでるうちに閉経することもあるから、その時はそれでいいのよ。閉経したからじゃあやめましょうかって、そう言うこともあるし。
それを聞いて、私は、子供を産むという、女性にしかない機能を一度も使うことなく終わらせることを思った。子供を持たないことは私の大きなわがままのようにも思われた。だけど同時に、私は誰にも明け渡すことなく私のまま死ぬことだってできるのだと、そう考えれば安堵した。私は誰の母親になることもなく、死ぬまで、私の母の娘として生きる。私は自らの意志で持って生まれたこの機能を一度も行使することなく終わらせる。何もかもは私で終わり。
それらは尊大な甘えでもある、だけど確かに安堵した。そのことに嘘はつけない。
(2022年11月26日の日記)
『マザリング』を読んで、この日記のことを思い出した。子供を持つことについてはまだ結婚もしてない身なので考えるのも烏滸がましいというか、実のところただ面倒がっているだけなのだけど、私はもう10年近く低用量ピルを飲んでいるので、そして、何事もなければ50歳までピルを飲み続けてやろうと思っている身であるので、より一層遠いことのように感じられる。一度ピルをやめたときがあったのだけど、そのときは結局生理が戻ってくるまでに半年以上かかって、ホルモンバランスが乱れて肌荒れがものすごくなったので諦めてもう一度ピルを続けることにした。おかげで毎月体は楽だし、生理も軽いし、婦人科の先生からは「飲んでた方が健康的」と言われているし、個人的にはもうずっとこれでいい。でも、これでいいと思っているということは私は本当に子供を持たないということだ。私は私を優先させて、私の秩序を乱すであろう子供の存在を認めない。子を持たない私がこう思っているということを、子を持つ人にしてみれば受け入れ難いとか、ばかなことを考えているものだとか、そう思われているかもしれない。
本当は、根源的にはずっとさみしいのかもしれないけれど、でも、そんな自分の瑣末なさみしさのために子供を求めるというのもどうなのかなと思う。結局は、子供を持つことも持たずにいることも大人のエゴだ。ああ、そうまとめてしまえばこれ以上何も言えなくなるね。終了。
ゲ謎の真正版が映画館でかかったので観に行ってきた。旧版? を観ていないので、どこがどう変わったのかは分からなかったけど……。
家父長制は邪悪! 有害! と声高に言ってくれる映画だなとは思ったものの、ゲゲ郎さんが「本当に好きな人ができたらあなたも変わるよ」と言い出して、あ、そこは、そういう思想なんですね……と思った。この2点、別につなげる必要はそこまでないのかもしれないけど、家父長制は有害! という一方の主張があるなら、だから番いがいなくても問題なし! という主張になってくれた方が私にとっては自然だったというか、いや、別に悪いことではないとは思いつつ、でも、そうなんだー……という感じだった。個人的には運命の人がいなくても人生どうにかなります。沙代さんはどうにもならなかったけど。
都会の街は私に何も求めなかったけれど、求められなかっただけ、私は身軽で、身一つで、自由に生きることができた。誰も私に恋愛も結婚も強要しないし、そんな声があるとすれば私の内側にあるものだけ。だから無視していればそれでよかった。街は私に何の干渉もしなかった。それでよかった。けれど故郷の町には見えなくても確固とした意思がある。この町に生きる人間全ては自分のものだと故郷の町は言う。自分のものなのだから、それぞれの家族を存続させるために、何より私を存続させるために、産めよ殖やせよと女性の体に指を差す。故郷の町はその町に住む人間である。大多数の意思が町を作る。町はその意思でもって生きる。人間は町そのもので、歯車でもある。あるいはアメーバ状の何か。ここは渾然一体に何かが溶け合っていて、冬の湿った空気のように重く、立っているだけで肩が痛くなってくる。
それでも手のひらに乗る小さな錠剤で、私は私を貫徹することができる。私を飲み込もうとするこの町に対抗することができる。身一つでも、立っていられるような気がする。それは不可能なことではないのだと、先生の話を聞いて、私は深く安堵する。
(2022年11月26日の日記)
田舎の町について同じ日の日記でこんなことを書いていた。あの村の住人みたいなこと言ってる。これを書いたときはまだ地元に戻ってきてそんなに日が経っていない頃だったから、感覚が過敏だったところもあるのだろう。今は良くも悪くもこの田舎の空気に慣れて、変わらず私は指をさされているのかもしれないけれど何も思わない。2年住んでみて、田舎は田舎といえどそこまで私に興味がないのだということも実感している。職場にも50代以上で結婚していない女性が結構いたりするので、それで安心しているところもあるのかもしれない。要は、人は、少なくとも私は、適応できるということだった。あの頃の過敏な感覚を懐かしく思ったりもするけれど、過敏じゃなくなったからといって私の全てが失われたわけではない。鈍感になった私に価値がないとも思わない。ただ、あのときはこうだったというだけだ。