20241007

kyri
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公開:2024/10/7

 文学は、言葉のアートです。

 言葉とは何でしょうか。書くこと、読むこと、考えること、語ること、すべて言葉によってなされます。コミュニケーションは言葉に媒介されます。

 私は大学で教えています。私と学生たちを繋ぐのは言葉です。

 文学は人文学の一つです。人文学は、英語でヒューマニティーズ(humanities)と言います。言い換えるなら、私は言葉を介してヒューマニティを教えています。私は今、今日この場におられる方々、そしてオンラインで聞いておられる方々に語りかけています。言葉によって、みなさんのヒューマニティに訴えかけています。

 言葉とヒューマニティ、それが私たちを今、結びつけています。

 言葉とヒューマニティ、それが私たちの武器です。「武器」という禍々しい言葉は、この場合、比喩として不適切かもしれません。まさにその武器なるものによって、今この瞬間にも、ガザの人々が瓦礫の下敷きになって、あるいは肉片になって命を奪われていることを考えると。

 しかし、それでも敢えて、言葉とヒューマニティは私たちの武器なのだと言いましょう。なぜなら、これは闘いだからです。

 私たちは闘っています。何人の人間性も否定されることのない世界のために。

 地球というこの小さな惑星に生を享けたあらゆる人間たちが、互いにかけがえのない友人として、隣人として、兄弟姉妹として——創世記に従えば、私たちはみな、同じ土から創られたアダムの子供たちです——そのようなものとして生きる、そのような世界を実現するために、私たちは闘っているからです。

 もう一度言いましょう。ヒューマニティこそが、私たちの武器です。

 人間の側に、踏みとどまりましょう。

岡真理『ガザとは何か パレスチナを知るための緊急講義』p.146-147.

今日で一年。未だ停戦は実現されていないし、戦禍はむしろ拡大していっているような気がして、そのことに絶望を見る思いがするけれど、どんなに小さくささやかなことであっても、働きかけていきたい。能登半島地震や先日の豪雨災害など、国内でも問題は山積しているしそっちを思っても胸が痛むし、私は能登に近いところに住んでいるので尚更能登の方にも心を寄せて、と言いたいときもあるけれど、だけど、この戦禍が始まってから一年。いや、イスラエルとパレスチナの間には常に戦禍があって、去年始まったことではそもそもないのだけど、でも一年経ったのかって思う。私一人が使えるエネルギーには限りがあるけれど、その限られたエネルギーの何割かでも、使いたい。


この問題はすごく大きなことなので本来この問題と何か他の話題を同列に並べることこそグロテスクなんじゃないかという気もするけれどこれは個人的な私の日記なので許していただきたい。


「あなたの文章は私小説的な題材になるときに光る」と言われた。頭を使って考えたフィクションよりももうちょっと肩の力が抜けた思い出話をしている時の方が体温を感じられて好きなんだそうだ。そんなことを言われると今まで一生懸命頑張ってフィクションにこだわって小説を書いてきたのがバカみたいだ。私は私のよさが何なのかわからないままずっと変な方向に行ってしまったということなのかも知れなかった。しんどい。

20221224 iPhoneに残っていたメモ

今日仕事をしているときに、ふと、自分が得意だと思いたいことと本当に得意なことはたぶん違うよな、ということを考えていて、そうしたら過去にこんなメモを残していたことを思い出した。私にこう言った人は私を傷つけたくてこう言ったわけでは断じてないし、私を褒めようとして言ってくれたことも分かっている。だけど、後からこんなメモを残してしまうくらいには私はもやついていたようだ。今となっては何をそこまで、と思ったりもするけど。

何をそこまで、とは思うけれど、でも、私もしかしてフィクション向いてないのかな、と考え始めるとやっぱりそれなりに堪えてしまう。私は自分の創作であれ二次創作であれ物語を作ることが好きで、それは得意なことでもあると思っていたけれど、それは私がそう思っているだけで、私以外の人からすれば私の創作物などそこまで心惹かれず、たとえばこうして書き綴っている日記の方が魅力的だと感じている人の方が多いのかもしれないと考えたとき、私は今自分がどこに立っているのか、どこを向いているのか、いや、どこを向けばいいのかわからなくなる。それこそこのメモに残した通り、私は私の良さがわからないままずっと変な方向を向いていたのかもしれないと不安になる。

私にとって本当に得意なことが、フィクションではなくこうして日々の気持ちを書き綴る日記の方なんだとしたら、そっちの方にシフトしていくのも全然悪いことではないんだろうと思う。実際、日記を書くことは楽しいし、読まれている実感が持てると嬉しいし。しずインには簡単なアクセスログがあって、私の日記を購読してくれている人が誰かもわかるようになっているし、そういう形で私のことを気にかけてくれている人がいるということをこの目で見れるのはとてもありがたくて嬉しいことだ。

だけど同時に、やっぱり私はフィクションが好きなんだよなとも思う。フィクションを褒められると嬉しい。それこそかつて作家を目指したくらいには、フィクションのことを大事に思っている。私の書くフィクションに心を動かされてほしいと思う。私の書くフィクションであなたの記憶に残りたいと思う。それがもし、私の本当に得意なことではなかったとしても。だから、本当に得意なことの方へシフトしていくのもありだし、だけど、それでも自分はこれが得意なんだと思いたいものにしがみつくのもまあ、ありなんだろうとは思う。効率は良くないかもしれないし、報われるかどうかもわからないけど。

そもそも、割り切って本当に得意なことの方へステータスを全振りしたとしても報われるかどうかはわからないのだし。そして、報われるかどうかということだけで物事を測るのも違うのだろうし。

要は、自分が後悔しない、自分でちゃんと納得できればいいよねと思う。私は日記を書くのも好きだし、フィクションを書くのも好きだ。だけど私にとって日記はやっぱりどこかで筆慣らしというか、気晴らしなので(いやフィクションも気晴らしなのだけど……)フィクションで褒められる方が嬉しいなと思う。だったらフィクションをこれからも頑張るしかないのだ。とはいえ今は何も出てこないんですけど……だからせめて日記の方も頑張ろうかなと……。

@kyri
週末日記