日記をサボっていた間、ずっと某ゲーム(9/20の日記参照)の実況動画を追いかけていた。それが今日完走したのでこうして日記を再開したところ。某ゲームの実況動画はいくつか見ているけど今回の人はすごく丁寧にプレイしてくれて、しかも頭の回転が速い人でいろんなことへの飲み込みが早くノーストレスで見ることができた。それにしても、初見の人の感想ってなんであんなに栄養分が豊富なんだろう。大好きなゲーム、しかも今となってはめちゃくちゃ手に入りにくいゲームに興味持ってくれてプレイしてくれて、その上「面白かった」「すごく良かった」と言われてしまうとなんだか感極まってしまう。私はこのゲームで泣いたことはなかったのだけど今回の動画は最終回でうっかり泣いてしまいそうになった。遊んでくれて、動画まで作ってくれてありがとうございました。いや〜、なんか本当に、3年ぶりに二次創作したくなってきたな。
今日はたっぷり寝てから図書館へ向かったら休日仕様の上司とばったり会った。小さな街なのでたまにこうして人に会う。上司は自転車に乗っていて、カゴにゴーヤと茄子を入れていた。なぜ。
明日、図書館で柚木麻子の講演会があるので、いい機会だと思って『終点のあの子』を再読した。10年前に読んだとき、10代の女の子の傷つきやすくてあざとくて愚かでそれでもしぶとい心の機微をこんなに細やかに書ける人がいるんだと感銘を受けて、一読だけで大好きになった本だったけれど10年経って再読してみたらあのときの感銘は再びはやってこなくて、その代わりすごく痛かった。痛いというのはイタいということではなく文字通り痛いということで、こんなに鋭利で切ない物語だったんだと10年越しの発見があった。シスターフッドやエンパワメントという言葉が広まった今の時代にこの小説はきっと流行らない、きっと時代遅れだと思う、私もこの10年で少なからずアップデートされたのだと思う、だけど、だからこの小説に書かれた心の機微や感情の揺らぎはそもそも存在しなかったのかといえば絶対そんなことはない。その存在まで否定して、物語の中から漂白してしまうのはむしろ不健康だ。この感情を知っている、今も存在している、この物語に救われる人は今でもどこかに存在するはず、だから、柚木麻子自身がこのデビュー作を今どう思っているのかはわからないけれど、だけど、どう思っていたとしても、これを書いてくれてありがとうと、私はそう言いたい。
午後は『墓泥棒と失われた女神』を観た。アリーチェ・ロルヴァケル監督は『幸福なラザロ』しか観たことがなかったけど、こっちも面白く観た。切なくも祝福に満ちたエンドはしばらく忘れないような気がする。それにしてもあのエンド、似たようなものをどこかで観たような気がするのだけど今このときまで思い出せない。ジョシュ・オコナー、本当に泣きそうに笑うんですよね。あの笑顔を見てるとこっちまでツンと切なくなってしまう。でも映画としては『幸福なラザロ』の方が好きだった。往々にして初めて観た映画の衝撃にはなかなか勝てない。
帰りに本屋に寄って川野芽生『無垢なる花たちのためのユートピア』を買う。川野芽生の小説は『Blue』以外読んだことがなくて、川野芽生ではむしろ『Blue』が異質というかもともと幻想小説を書く人であるわけなので、文庫化してくれてとてもありがたい。しかし今なお積読がえらいことになっているので手をつけるのはずっと先になることでしょう。なむなむ。ルシア・ベルリンの新刊も出たことだし、私の積読は増えこそすれ減ることは一生ない。なむなむ。
私が書く某ゲームの推しカプはpixivでは書き手が私しかいないという話はサボる前の日記で書いたけれど、ということは私の推しカプの新作は私が書かないことには永遠に増えないということで、しょうがない、書くか……という気持ちに傾いている。でも、頭の中にこれかな〜という構想はあるものの書き出すまでの心のハードルがなぜか高い。書くことって本来大変なことなんだよね。そして、ここまで書いて思い出したけど来週末に社内試験の二次(論文)が控えている。だから書くことは大変なんだっていうの。そのうえ一次試験の時と比べて圧倒的に準備していない。ああ、今年は二次試験で落第してしまうのかも……。