『親密さ』は前半が公演初日へ至るまでの準備期間、後半が舞台本番2時間なのだけど前半が身に迫りすぎて何回席を立とうと思ったか分からなかった。私が知っている演劇は『ハッピーアワー』よりもこっちだった。演出として大人数をまとめ上げることの上手くいかなさやプレッシャー、だとか、思う通りに動いてもらうために精一杯気を遣って言葉を選んだり、だとか、演劇から始まる恋愛関係、だとか、その恋愛の中に発生する力関係、だとか、プライドと才能と現実のはざまで懊悩したり、だとか、そうだよ、私は知ってるよこれを。かつて自分もこの只中に身を置いていたことをまざまざと思い出した。だから舞台を作り上げることだって辛かったんだ。『ハッピーアワー』でなんか浄化されたような気になっていたけど根本的な記憶は何も変わらず私の中にあった。だけどどっちがより演劇の現実に肉薄しているのかという比較は野暮だし意味がない。そんなことは問題じゃない。
後半の舞台本番2時間は濱口竜介の脚本によるものだと思っていたけど観終わって調べてみたらリョウちゃん自身によるものだった。そうか、リョウちゃんはこういう脚本を書くんだなあと令子みたいなことを思った。私は照明をやっていたから、この舞台は正面から照らすライトが少ないなあとか思いながら見ていた。リョウちゃんが書いた演劇は素直に面白かった。会話がとても魅力的だった。タイトルにもなった「親密さ」とは何だろうとずっと考えていた。なぜこのタイトルだったのだろうと。いろんな人の間にある親密さはふと接近したり、離れたりを繰り返して、ひとところに留まらない。親密さは常に揺らぎながらそこにある。だけど、総体としては、親密さはどんどん離れていったような映画だったように思う。令子とリョウちゃんの仲は冷え切っている、ではないけれど、好きでいたいのにお互いの不満が頭をもたげて上手くいかない、今となってはなんで今も付き合ってるのか分からない、ような二人だった。エンドがそうであったように、あの舞台の完結がそのまま二人の関係の終わりを暗に示しているように思われた。どんな演劇作品もいつかは終わるし、どんな人間関係もいつかは終わる。そして演劇とはその人にとって一回性でしかあり得ない。同じ演目の演劇を何度も見たとしても、その一回一回は、見終わるともう二度と戻ってこない。
映画のほんとうのラストシーン、偶然の、久しぶりの再会にもかかわらず、まるで昨日会ったばかりのような空気感、ほのかな、だが確かな、親密さと呼ぶしかないような何かを通い合わせながらホームで話していた二人は、やがて穏やかに別れを告げ、令子は京浜東北線に、良平は山手線に乗り込む。二つの電車は発車するとしばらく並走し、二人は窓越しに視線を交わし合い、やがて離れ出すと良平は車内を逆走して令子に挨拶を送り続ける。明らかにヴィム・ヴェンダースの『さすらい』のラストシーンへのオマージュだが、そんなことはどうでもいい。そこではあからさまなまでに切実であまやかな、そして残酷きわまる「距離」の物語が演じられている。離れてゆく、おそらく二度と近づくことはないだろうはるか遠くへと離れてゆく、その寸前にこそ、この映画でもっとも純粋な、強度の親密さが俄かに立ち上がる。だがそれは、そう見えた直後に嘘のように消え去り、二度と戻ることはない。
佐々木敦「親密さ、とは何か? あるいは距離についてー『親密さ』論」
知覚する主体が上演中に生み出し、後から部分的に思い出す意味の大半は、言語的な意味と等しくはない。非言語的な想像、イメージ、空想、そして記憶、あるいは身体的に表現され、特殊な身体表現として意識される気分、感覚や感情は、言語に「翻訳する」のが非常に難しい。なぜなら言語記号は、つねに一定の抽象性を特徴としており、その抽象性が物事の関係や関連性の創出の能力を言語記号に与えているからである。それに対して具体的に知覚された身体や事物、音、光の場合、知覚される中で現れるその特別な具象的な現前は、上演中であれ後からであれ、それを概念化しようとするだけで失われてしまうのである。どれほど詳しい言語的な説明を行っても、それは同じである。詳細な言語による説明は、せいぜいそれを聴いたり読んだりする者に、まるで想像しがたいほどに逸脱したイメージを可能にするだけである。
エリカ・フィッシャー=リヒテ『パフォーマンスの美学』pp.235-236.
演劇にしても、人間関係にしても、後からそれを振り返って言葉にしようとするとき、それを聴く人に正確にそのイメージが受け渡されることはない。全てはその演劇を、人間関係を、当事者として受け取った人の中にしかなく、そこに居合わせなかった人との共有は本質的には不可能だ。親密さも、それが流れるその人たちの間でしか共有ができない。そのことを、ひとつの舞台をまるまる上演することによって立ち上がらせることができる。なぜなら舞台もその場に居合わせた人の間でしか共有されることはないからだ。全部は、はかない。人と人の間に確かにあったのであろう親密さもいつかは離れて二度と戻らない時がやってくる。親密さというものをテーマにするとき、そこに舞台という媒介を立てたのは必然だったのかもしれない。
それでも、いや、だからこそ、あのラストシーンには胸がいっぱいになるのだ。かつて令子とリョウちゃんの間にあった親密さ、それが最も近かったときの親密さが、ほんの一瞬、それも、二人の長い長い別れ(もしかすると二人はもう一生会わないかもしれない)に際して再び蘇る。京浜東北線と山手線は道を違えてしまうけど、あのとき、確かに私たちは親密だったと、後からどれだけ時間が経っても思い出すことができるような夢のようなひとときだったと、二人の中に残り続け得るものだったと、そんなふうに見せられているような気がして。それを共有させてもらったような気がして。この4時間を通して、私は確かに令子とリョウちゃんの二人の関係を追いかけた当事者だった。あのラストは、その当事者だった観客、私たちへのギフトだったと、そんなふうに思えるのだった。