20240414

kyri
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『オッペンハイマー』をもう一回観に行こうと思って出かけたのはよかったけれど、出かけてからあんまり気が乗らないことに気づいたので、図書館で本を読んで帰ってきてしまった。ちらっと映画館に寄ってみたらコナンを観にきたのであろう10代くらいの人たちで溢れかえっていて、いいなあ私も早く観たいなあと思う。と言いつつ、そんな若い人たちがひしめき合う中でひとり観にいくのはまだ勇気がいるので、ほとぼりが冷めた頃に行こう。コナンについてはもう25年くらい灰原哀を推していて、コナンくんはもう本当に、灰原さんとつき合ってくれ……とこれもまた25年くらいずっと思っている。なので去年の劇場版は最高だった。感極まって3回観に行った。高山みなみと林原めぐみのインタビューを読んだら「コナンと哀は運命共同体」と語られていてまた感極まって帰りの電車で泣いた記憶がある。それはそれとしてBLだと工藤くんと黒羽くんを推してこれもまた25年くらい経つ。私のBL原体験はコナンなのであった。


びっくりしたのは、子どもの名前を、産んだ女性じゃなくて、その家系のえらい「おじさん」が名付けることも少なくなかったことだ。「おじさん」は産んでいないのに。「おじさん」は産む能力を持っていなかったのに。どうして何もしていない「おじさん」がしゃしゃり出てくるのが普通のこととして、受け入れられていたんだろう。

松田青子『持続可能な魂の利用』pp118-119.

松田青子の小説を読むと元気になると思っていたのだけど、『持続可能な魂の利用』は今まで読んできた彼女の小説の中でも特に怒りと抵抗に満ちていて、元気になるより先にちょっと疲れてしまった。でも時間を置くとちょっと元気になってきた。ちょっと怒りすぎでは、とも思ったのだけど、その私の感想は忌まわしきトーンポリシングのそれだったので反省する。松田青子にこんな小説を書かせているこの社会こそがクソなのだ。

読み終えたあとにブクログでこの本の感想を読んでみると、みんな(おそらく女性だろう)「私も」「私も」と自分の経験を切実に語っていた。一方で「怒りすぎでは」「男性がみんなこんな感じじゃない」と言っている人もいて、この本の帯の幾原邦彦氏のコメント「その革命が見える者は勇気を得られ、見えぬふりを生きる者は吐き気を催すだろう。あなたはどっちだ?」がそのまま映し出されているようだった。

ちなみに私も自分の話をすると(この日記で自分の話じゃない話をしたことがあっただろうか)私も自分の名前は親戚のおじさんにつけられてしまったたちである。幼かった頃に初めて対面したそのおじさんは私を見るなり誇らしげな顔で「お前の名前は俺がつけたんやぞ」と言ったのだ。これはかなりの衝撃だった。それまで自分の名前は母親がつけたのだと、意識するまでもなく言葉にするまでもなく信じていたのだから。なのに、自分にとっては全然知らない、この目の前のおじさんが、私の名前を? そのおじさんはもう死んでしまったけれど、後々母に「自分の名付け親があの人でショックだった」と正直に伝えたら母もバツの悪そうな顔をして「本家の人だったからしょうがなかった。でもいくつか候補を挙げられて、その中でも良いと思った名前を選んだのだ」と釈明されたことを覚えている。今これを言うのは卑怯だけど、私はあのおじさんが好きじゃなかった。嫌いだった。そんなことをこの本を読んで思い出した。私がずっと言わないでいたことを、小説にしてくれてありがとう松田青子。

 だいたい、別に、ぶっちゃけ、滅んでもいいのだ。自分の魂をすり減らして世界の犠牲になるくらいなら、自分の魂を優先して、世界が滅んでいくのを眺めていたっていいのだ。それでもやっていってやろうと思うから、こんなにも藻掻いて泳いでいるのだ。息ができる小さな陸を探して。

 そしてそれでも「やっていこう」と一念発起するのは、少女たちだけではない。女性だけではない。

 この次の未来に、人類は【少女が見えなくなった「おじさん」の話】を書かなければならない。例えば、雑誌『ユリイカ』(青土社)2020年9月号で「女オタク」特集をやったのなら、今まで見えないことにされてきた「女オタク」を可視化したのであれば、その次に「女オタクを排除してきてしまった側」の現状把握と成長を書かなければならないはずであるように。そして【少女が見えなくなった「おじさん」の話】の書き手は、松田青子さんである必要はない。当然だが、「必要がない」というのは、「松田青子さんに書けない」という意味では全くない。あはは、言うまでもないが。

はらだ有彩書評 https://realsound.jp/book/2020/10/post-630831_2.html

それにしても、割と直球で欅坂46と平手友梨奈さんがモデルだと思われるアイドルが登場してきて驚いてしまった。平手友梨奈さんといえば「角を曲がる」がめちゃくちゃ好きで、この小説を読み終えてから今もヘビロテしている。でも平手さんに「角を曲がる」みたいな曲を歌わせようとするプロデューサーは一体どういう神経してるんだ? と思わなくもなく、彼女も心から納得した上でこの曲を歌ったのだと信じたいが、どうなんだろう……。

「角を曲がる」といえば、たまたま見たMステのパフォーマンスがめちゃくちゃ素晴らしくて、今もこの曲を聴くたびに思い出す。真っ白な羽根が敷き詰められた正方形のステージを端から端へとゆっくり歩きながら歌う平手さんは本当に綺麗だった。

そしてこの「角を曲がる」あまりに好きだったので昔この曲を基にして短編も一つ書いたんだった。色々転載するのが好きだな〜私。でもいつの作品だろうと人の目に触れることは嬉しいし、今また新しい人に読んでもらえることも嬉しい。何より私が気に入っているので!

@kyri
日々と二次創作の間で