数日前に祖母の具合が急に悪くなって夜中に救急車を呼ぶ羽目になった。祖母はまた入院生活に逆戻りだ。夜中に必死に両親の名前を呼ぶ祖母に最初に気付いたのは私だった。こんなに呼んでいるのに両親は気づかずに私が起こしに行くまで平和に寝ていた。まあ、そんなことは別にいいのだけど、今でもあの夜のことを思い出すと気分が沈む。思えば2年前に私がこの家に帰ってきてから、私がいなかったら祖母は多分3回は死んでいた。これで3回目。そんなこともあって、今、正直疲れたなと思っているところ。祖母は退院して帰ってきても1、2ヶ月ほどで病院に逆戻りする生活を続けている。いっそ、どうか、病院という安全な場所にずっといてほしいと私は願うものの、病院だって治った人は送り出さないといけない。そして、ずっと病院にいてほしいなと思う私は最低だということだ。でも、それが叶わないとしても、せめて日中はヘルパーさんに来てもらいたいよ。
どこかで、祖母は永遠にも生きるのだという気がしていた。祖母に死の影が近づいていることにあまりピンと来ていなかった。だけど祖母も人間なのだから、生まれたからには必ず死ぬ。生まれたばかりの私を見て、美しい手を持った子だと褒め称えてくれた祖母は死ぬ。それが遅いか早いか、それだけのことだ。それを言い出したら私の両親だっていずれは必ず死ぬ。その頃には私はもう少し年を取って、もしかしたら情緒的にも安定しているのかも知れないけど、今このときの私はその別れを想像すると息が苦しくなる。そして、そんな悲しい別れが訪れてしまうなら、その前に私が死んでしまえばいいのだなんて考えたりする。だけどね、死んだらだめなんですよ。
ネットサーフィンしていたら金原ひとみ『蛇にピアス』のとある書評を見つけた。
書評アイドルって初めて聞いた。世の中にはいろんなアイドルがあるんだなあ。アイドルというのだからきっと10代とか20代前半くらいの若い人なんだろうなと勝手に推測していたら2004年生まれとのこと。あなた、まさに金原ひとみがその『蛇にピアス』で芥川賞を取った時代の生まれじゃないですか。
私にとって、ピアスや刺青は体を傷つけるものであるから怖いし、魅力を感じない。周りの友達には興味を持つ子もいるかもしれないし、実際ピアスを開けたいという子は多い。しかし、私の考えているファッションとは違ったピアスだらけの男、背中に龍の刺青といった知らない、知りたくもないような刺激的な世界がこの薄い本の中には詰まっていた。ドラマや小説でしか見たことのない世界は、ある意味私にとっては異世界でデンジャラスだった。危なくて、毒々しくて、ここにいる人たちは何だか見ていて辛い。
へえ〜と思った。まあ20年前だろうとピアスにもタトゥーにも興味ない人は山ほどいただろうけど私自身が全然そんなことなかったので、改めて、きっぱり「魅力を感じない」という語りを読むと新鮮に感じる。
私はピアスに強い憧れがあったし、その憧れはいくつかピアスを開けた今も消えずに息づいている。高校生になってすぐに自分でピアスを開けてるんるんになっていたけれどその後の服装指導であっけなく見つかってしまい怒られたのちに没収されたこともある。結局大学生になって開け直したし、社会人になってからは軟骨にもピアスを増やしたけれど、本当はまだまだ開けたいと思っている。私はピアスをたくさん開けている人やタトゥーを入れている人を見ても危ないとか毒々しいとか辛いとか思ったことはない。身体改造は常に憧れと共にあった。でも、そんな憧れを最初に抱かせたのはこの『蛇にピアス』だったかも知れないなと、今更ながら思い至る。
読み終えて気になることがあった。この主人公達の10年後、20年後だ。ピアスの穴も、刺青も、もう二度と元には戻らない。一時的な快感で一生消えない穴。この話の続き、どういう世界に生きているのだろうか。より痛みを求めてしまってはいないだろうか。主人公たちの将来に不安を感じてしまう。この先、ハッピーエンドが待っていたら嬉しい。
なんだかんだで生きてるんじゃないかな、と私は思った。この日記で何回も書いていることだけど、死ぬより生きる方が簡単だ。それよりもハッピーエンドという言葉が気になった。人生におけるハッピーエンドって何なのだろう。自分の来し方をじっくり振り返り、今まで関わってきた人全てに感謝の気持ちを持てるくらいにゆっくりとした死に方であればハッピーエンドなのだろうか。だとしたら数日前の祖母がもしも苦しんだままあの夜に死んでしまっていたらそれはバッドエンドだったのだろうか。死に方がバッドだったとしてもそれまでの過程、それまでの人生がハッピーだったとしたら帳尻が合ってハッピーエンドとなるのだろうか。考えれば考えるほどわからない。でも、一側面だけを見てハッピーだったかバッドだったかを決めることだけはできないだろう。私だって私の人生がハッピーなのかバッドなのかまだ断定することはできない。多分、死ぬその瞬間もそれを判断できないはずだ。ということは全部は残された人間が決めることなんだろう。だけど人の死に際してこれはバッドエンドだねと評価してしまうことはただただ恐ろしく感じる。そう判断できるほど私たちはそこまで神に近くはない。
イーユン・リーの新刊を読み終えた。これでなんとなく弾みがついたような気がする。勉強しなきゃいけないし、試験が終わったらまた小説も書きたいけれど、また本も少しずつ読んでいこうと思う。リーの新刊はやっぱり素晴らしかった。けど正直なところ前作『もう行かなくては』の方が好きだったかな〜。もう少ししたらちゃんとした感想が出てくるのかも知れないけど、この頃の私は本でも映画でもまともな感想をほとんど紡ぎ出せなくなっているので、引用だけに留めておく。
そしてリーの短編集がまた今度出るとのこと。嬉しい!
私に引っかき傷を残せる人は——当時もいまも——ファビエンヌだけだ。
リンゴでリンゴを切ることはできない。オレンジでオレンジを切ることはできない。あの頃ずっと私たちは、同じ木の枝に並んでぶらさがる二つのリンゴだとか、同じ木箱の中で寄り添う二つのオレンジだとか、それどころか二つがくっついたような奇妙な形のカブやジャガイモみたいに一体となって生まれてきたとか、そんなふりをしていた。でもそれは想像ごっこにすぎない。本当は、ファビエンヌと私は二つの別の存在だった。私はファビエンヌの刃を研ぐ砥石。どちらのほうが硬い物質でできているか、問うまでもない。
イーユン・リー『ガチョウの本』p.255.