お盆休みの間は毎日日記を書こうと思っていたのに、昨日は朝から晩まで『細雪』を読んでおり、これは読み終えてから日記を書いたほうがいいなということでさっさと寝てしまった。ということで今日、ぱらぱらと雨が降る朝の間に『細雪』読了。上中下巻の、ちょっと久しぶりな長さの読書だった。年々、こういう長くて読み応えのある本を読めなくなっていっている。こういうちょっとまとまったお休みができたらこれと決めて、腹を括ってがっつり読むのがいいのかもしれない。この『細雪』も、もはやいつ買ったのか覚えてないレベルの積読だった。いつ買ったのか覚えてないレベルの積読はまだまだたくさんあって、でも今日それが一つ減ったのだと思えばちょっと嬉しかった。
妙子が好きだな、と思いながら読んでいたのだけど、読み進めるうちに、自分がまさに雪子と同年代なこともあり、彼女の縁談が果たしてどうなるのか、それこそ幸子と同じようにやきもきし、その雪子の縁談の邪魔にしかならない話ばかり持ってくる妙子に頭を抱えた。妙子のこと、私は悪いとは思わないけれど、それでもまさに幸子と同じで「何も雪子の縁談がどうこうしてるときにそんな話持ってこんでもええやん」という気持ちの連続で、幸子はすんでのところでぶち切れるのを我慢していたけれど私だったらぶち切れていたと思う。そして雪子のこと、決して嫌いではないのだけど、縁談の相手から散歩(というかデート)に誘われてもはにかみ癖が爆発して断ってしまったりするのを読んでいると、幸子が作中でもそうだったように私も「なんでよお雪子!」と怒りたくなる。でも、彼女の縁談がうまく纏まればいいなという思いと同じくらい、別にこのまま無理して結婚せんかったっていいやん……という思いも湧き上がる。それはなぜなら私もまたそうであるから。雪子の境遇が決して他人事じゃない。私が今生きているのは令和の時代であろうとも、「結婚していない自分」というものにふと直面するときというのはあって、そんなとき、全てに対して居心地が悪くなる。この居心地の悪さをきっと雪子も感じていたのだ、時間も時空も超えて雪子と私は接続されるのだと思うと、いやあ谷崎、すごいなあ……としみじみ感じ入ってしまった。それにしても、物語はいよいよ太平洋戦争突入するかしないか、くらいの時期に終わってしまうけれど、だけどもしも日米開戦の火蓋が落とされたあとになってしまえば妹の縁談という幸子の悩み事なんて本当に取るに足らない小さなことだ。あともう少し物語が進んでいればこの姉妹たちはまさに今日を生きるか死ぬか、という窮地に立たされていただろう。そうなる前に物語が幕を引いたのは、彼女たちにとって幸せだったのかどうなのか。でも、終わり方もなんか不穏だったな……私はあのエンドに雪子の死を予感してしまったけれど、それは考えすぎでしょうか。
阪神電鉄の御影駅からさらに南に歩くと「井戸」という喫茶店があって、学生時代にたまに訪れてそこで谷崎を読んでいたことを思い出す。別に谷崎が神戸と縁があったからそうしたわけではなかったのだけど、「井戸」に行くときのお供は決まって谷崎だった。お店の真ん中にオルガンが置いてあって、日曜日には毎週ジャズライブが開かれていた。もし学生時代の私に『細雪』に手を付ける根性があったとしたならきっと「井戸」にこもって読み耽っただろう。いろんな京阪神地区の地名が出てくる小説だったから、きっと学生時代に読んでおいた方が楽しめただろうに、ひとえに「長いから面倒だな」と敬遠した若き私の怠慢だ。「井戸」は、今でもジャズライブをやっているかはわからないけれど、お店自体はまだあるみたい。
昼前に雨が上がったので、家族で墓参りに出かけた。もちろん祖母も一緒だ。私はもう祖母は家にいてくれたらいいじゃないかと内心思いながらもそんなこと言い出せない。もう外を歩くのには誰かにつかまりながらじゃないと覚束なく、祖母はずっと私の腕にしがみついていた。祖母の歩幅に合わせてゆっくりゆっくり歩きながら、果たして、来年もこうして祖母と歩いているだろうかと思った。来年の夏に、まだ祖母はここにいるだろうか。誰が入っているのか子供の頃からわからない親戚の墓に手を合わせながらそんなことばかりを考える。日焼け止めを塗り忘れた肌に日差しはじりじりと熱く、ただ立っているだけで汗が流れ、流れた汗が目に入って沁みて、それでも時折涼しい風がふわりと流れた。過疎化の進むこの故郷の町にあっては死んだ人間ばかりが増えて、高台の霊園には墓がひしめき合っている。そう遠くないうちに、祖母もこの町の死んだ人間の一人になる。ついぞ、花嫁姿も孫の顔も見せなかったし、見ないまま祖母は死ぬだろう。それが、その選択が、後悔はなくてもただ、ふと悲しい。だけどその悲しみもじきに忘れるだろう、ふわりと流れた風のように、またどこかへ飛んでいくだろう。死んだ人間はそこで止まってしまうけれど、生きていれば、生きている限り、移ろっていくものだから。