昨日までは確かに体調があんまり良くなかったのだけど、ちょっと頑張って飲み会に行ってしこたまお酒を飲んで泥酔して帰ってきて、泥酔した頭で日記を書いて(読み返すと恥ずかしい)一晩経って目を覚ましてみたら案外頭も体もすっきりしていた。いいお酒は体にも残らないでいてくれるのだなということを何度目かの実感。全然調子がよかったので会社行こうかな? とも一瞬思ったのだけど、そこはやっぱり行きたくなかった。でも、こんなに元気なのに休んでしまったなーという罪悪感がひどく、逃げるようにして朝から出かける。

『背表紙の学校』で、奈倉さんは自分の「最初の記憶」について書く。本当にそれが生まれて最初の記憶だったかどうかは置いといて、奈倉さんは自分の「最初の記憶」について「幼少期にいた所沢の団地のなかで、椅子に寝転んでいた記憶がある。私はまだひとりがけの椅子にころんと横になれるくらいの大きさだった。それがほんとうに最初の記憶なのかどうかはわからないが、「記憶」を意識した最初の記憶であることは確かだ」と書く。これは幼き日の奈倉さんが「何にもないときのことを覚えておくことはできるか?」という挑戦をして、その結果今に至るまで残っている記憶なんだそう。
これを読んだとき、私もまた、似たようなことをしていたことを思い出した。私の場合は最初の記憶まで遡ることではないのだけど、あれは小学5年生の冬、2002年2月9日のことだった。掃除の時間に廊下を雑巾掛けしているときに、私はふと閃いたのだ。「今この瞬間が、5年前の今日になる日がやってくる」なぜ5年の時間にしたのかはちょっとわからないけれど、そのとき私はまるで天啓を得たかのように視界がクリアになるのを感じた。今のこの、どうでもいい時間ですら、5年前になる日が必ずやってくる。そのとき私は16歳になっている。16歳の自分のことを想像してみても全然ぴんとこない。本当にそんな日が来るのかも疑わしい。だけど、私が16まで生きていようがいまいが、2007年2月9日は必ずやってくる。そして、この閃きを得た私は、「今このときのことを絶対に覚えておこう」と思った。そして、その通りにした。5年後の2月9日、16歳になった私は、「本当にあの日から5年後がやってきた」と思った。あの、廊下を雑巾掛けしていた私は、確かに遠ざかってしまったのだった。
今思えば、廊下を雑巾掛けしていた時間が5年前や10年前や20年前の出来事になったところで本当に取るに足らないこと、だからなんやねんということなのかもしれないけれど、この記憶は、私に取っては、時間というものの雄大さ、果てしなさ、自分の手に負えなさ、というものを感じた出来事だ。私には「今このとき」しかないと思っていても、それはいつか必ず過去になる。今この瞬間ですら、1秒先には過去になっている。それが積み重なって、いつか5年後になり、10年後になり、そしてまた今になる。こんなことを感じると同時に、奈倉さんも同じようなことを書いていたけれど、こんなにどうでもいい瞬間も、自分が意味を持たせることができるなら、今に至るまで覚えていることができる、そう思うと、なんだか希望も感じるのだ。
というのも、子供の他愛ない意地が生んだその体験は、「記憶は、選択の自由がきく」という気負いにつながってくれたからだ。つまり記憶というやつは「これは大事だから覚えておこう」という自分の決意が、少なくともある程度は通じる相手なのだ。あれほどなんにもない「なんでもないとき」を自分の意志ひとつで記憶に留めておくことができるなら、自ら「記憶していなければ」と感じた大事なことは、決して忘れることなく心に留めておくことができるはずだ。それって、すごいことなんじゃないの。
奈倉有里『背表紙の学校』p.24.
そして奈倉さんは最後のあとがきで、誰かの(回想録的な)本を読むときは、同時に自分の記憶の整理もしているものだと書く。
この本のなかでわかりやすい例を挙げるなら、たとえば「最初に読めなかった本」を読んだかたは、「自分の最初の記憶に残っている本ってなんだっけ」と、考えてみたんじゃないでしょうか。そうしてもしなにかを思いだしたとすればその記憶はよみがえり、強化される。実際の読書では、もっとずっと細かい次元の、描写、表現、視点、思想など、すべての記述が読む人の記憶と連動したり反発したりといった作用を呼び起こします。だからこそ本を読むことは、ときに信じられないほど嬉しく、ときにとてもつらい作業になるし、私が回想を記しそれを読者に委ねるということは、そういう意味ではとんでもなく責任重大なわけです。そのことに自覚的でありたい、というのが、二年前の決意でした。
奈倉有里『背表紙の学校』pp.215-216.
まさに、私が私の2007年2月9日のことを思い出したのは、奈倉さんのこのエッセイを読んだからだ。このエッセイをもし読まなかったとしたら、私はまだしばらくこのことを思い出さずにいただろう。だけど、本を読んで、たとえば「私もそうだった」と感じられる瞬間があるとするなら、それはかけがえなく貴いものだと思う。著者と精神的につながったようにも感じられる。その実感が、また本を読もうという気にさせるんじゃないだろうか。他にも引用して語りたいことがたくさんあったけれど、長くなるので今回はこのへんで。奈倉さんの本はこれで3冊目だけど、この本もすごくよかった。

そして今日も今日とて飽きずにプロジェクトヘイルメアリーを観に行った。これから夜遅い回だったり、休みを取らないと観に行けない時間帯の回しかなくなってしまうので、流石にもう今日で最後かなということで。入場特典まだあって嬉しい。やっぱさ〜ライアン・ゴズリングが良すぎるわけ(n回目)あの良さがなんなのかいい加減わかりたいのだけどまだ言語化ができない。ただただ、ライアン・ゴズリングが良すぎる……くらいの解像度しかない。でもその程度の解像度で4回も観に行ってしまった。でも、思えば私はどの映画を観たところで、どんな小説を読んだところで解像度はえらい低い。こんなに低いのに、よくまあ毎回どうにかして感想を書こうとするよなと、ちょっと感心してしまう。これからも続けていこう。帰りに映画館の近所のカフェに寄ってさくらラテとチーズケーキを食べた。さくらラテが思っていたよりかなり甘かった。