最近は毎回「暑い」と「今日も勉強」としか書いてなくてそろそろ飽きられてもしょうがないなという気持ちでいる。でも暑いのも今日も勉強なのも本当のことだしそれ以外に書くことってあんまりないし途方に暮れてしまう。今日は朝からなんとなくお腹が痛かったのと、眠かったのとでよっぽど家にいてごろごろしていようかと思ったけど、ごろごろし始めると私はまじで一日中ごろごろしてしまうので、気持ちを奮い立たせて図書館に向かった。猛暑で街はがらんとしていて、でも図書館には人がたくさんいた。みんな涼みに来ている。でも、涼みに来るには図書館はいい場所なのだろう。お金もかからないし。私はひたすら勉強していたわけだけど、今日は早々にやめてしまってずっと本を読んでいた。これも家にいるとごろごろしてしまって本に手をつけなかったと思うから、やっぱり外出してよかった。
「当然でしょ。こう考えるんだよ。あたしらの身に起こることは何でも、本に書くまでは現実じゃないって」
イーユン・リー『ガチョウの本』p.101.
本に書くまでは現実じゃない。20代だった私は足掛け10年、実に中学生だった頃から構想し続けていた創作をようやく形にできた。それは3人の男子高校生の、高校3年間の物語だった。その3年の間に彼らはゆっくり成長して、変化して、大人になって、一応はBLで、確かにBLだったのだけど、それよりも、私自身の高校時代、10代だった時間の総括のような気持ちで書いていた。彼らが経験した学校生活でのあれこれはそのまま私が経験したことでもあったし、特に大学受験にまつわる葛藤や不安、卒業と共にいつか訪れる別れへの思い、なんかは全部、そのまま私の思いだった。私はこの物語を書くことによって自分が通り過ぎてきた時間と記憶を手放したかった。この物語を読んでくれた友達から「あなたはずっと高校時代って名前の苦いガムを噛み続けていたんだね」と言われたのだけど、本当にそう。今となってはなぜあんなに自分の高校時代にこだわっていたのかわからない。今も気持ちとしては覚えているけれど、でもわからなくなってしまった。それが手放したということなんだろう。でもリーの言葉を飲み込むなら、私の記憶は物語に書き起こすまでは現実じゃなかった。書き起こしたことでやっと私の記憶は現実になった。書き起こしてやっと、あのとき自分に何が起こって、あのとき自分が何を考えていたのかわかったような気がした。書くことにはそういう意味もある。
今も、20代と同じくらいの、書くことへの熱量とか、これしかないという切実さとか、そういうものを維持できているとはあんまり思えない。20代のころ、確かに私は創作で身を立てたいと思っていた。思っていたし、それができると思っていた。でも今はあんまりそう思っていない。書くことはどうにか、なのか、それでもごく自然に今も私の手に残っているけれど、私にはこれしかないのだという切実さはもうそこにはないような気がする。前述の高校生3人の物語を書き終えてから来年で10年が経つけれど、その10年の間に、書くことと私の間には適切な距離ができたような気がしている。昔はあまりに近すぎたのだと思う。まるで恋人みたいだった。でも恋人であるということはそのうち別れる可能性だってあったわけだから、今はなんというか、同居人みたいな、そこにいるのが当たり前みたいな、そのくらい。年齢を重ねると世界との距離感をなんとなく掴めるようになってくるような気がしている。それは私が思っていたより遠かった。でも、思ってたより遠いくらいがちょうどいいのかも知れなかった。そして、私は間違いなく、年齢を重ねて楽になった。
でも時々、無性に懐かしく思う。燃えるように生きていた日々。
「憶えておかなきゃいけないのはね、人に求めてるものを与えちゃいけないってこと」
「それって、あたしたちも求めてるものをお互いに与えちゃいけないってこと?」
彼女は私の横面に張り手を食らわそうとするような仕草をした。「究極のあほだね。あたしらは違うに決まってるでしょ。あんたとあたしは、まるで……」
「双子?」彼女が言い終えないうちに私が口を出した。「一体?」
「ちがうよ。あんたとあたしは、まるで昼と夜」
「どういう意味」
「昼でも夜でもない時間なんてある?」ファビエンヌは言った。「ないでしょ。だからほら、あんたとあたしが一緒にいれば、時間を全部占拠できる。あたしらの間にすべてがあるの」
イーユン・リー『ガチョウの本』p.120.