天気が良かったので図書館へ出かけて、気が向いたのでコナン2回目を観て、服を見た。コナンはさすがGWなだけあって若い人でいっぱいで、でも先日の日記でも書いたけどこの若い人たちはきっと生まれる前からコナンという作品が存在していたはずで、その、自分が生まれる前から続いている作品の映画を観に来るというのはどんな気持ちなんだろうと考えたりする。でも、それを言ったら私だって生まれたときにはサザンオールスターズは存在していたわけで、そのサザンのライブに行くのだと考えてみたら全然変なことじゃないよなあと思う。それに、観終わった後にあちこちから「まじっく快斗がさ」「あのシーンはテレビで観た」という声が聞こえてきて、おお、私より全然詳しいじゃんと思った。私は今となっては本編を追いかけていないし、まじっく快斗も大昔に読んだような記憶はあるけど全部忘れちゃったんだよな。そして2回目の五稜星ですが、やっぱり愛しかなくて、やっぱりaikoがかかるところで涙腺が爆発しそうになる。トンデモ展開というか、もはやおなじみになったアクションシーンは笑っちゃうんだけど、それも含めて愛である。いやそれはミッションインポッシブルでトム・クルーズがやるやつ……と思っても、愛だからいいんである。
そして久しぶりに服を見にいったのだけど、MM6の新作Tシャツがとっても可愛い、可愛いのだけど5万円。ごまんえん?! これは円安の影響なのか。全然可愛くないお値段で引いてしまう。でも他に試着させてもらったノースリーブジャケットも可愛くて、これを2着とも買ったら10万円である。じゅうまんえん?! そんな金がどこにある。どこにあると思っても、買おうと思ったら買ってしまうんだよな。今日はひとまず「コナンを観てから考えます」と言って逃げてきたけれど、明日も出かけようと思ってるし、なんか嫌な予感がするな〜……いっそ売れてくれれば諦めもつくのだけど。というのも、山内尚・清水えす子『シミズくんとヤマウチくん われら非実在の恋人たち』を読んで、お二人の着道楽っぷりに当てられてしまい、私も服が欲しいなあ……と思ってしまったのが良くなかった。服は沼。ちょっと、一晩考えよう。今日寝て起きたらあっさり欲も引いているかもしれないし。
芥川賞がなんだってのさ。候補になる前からわたしはとっくに特別だったのに。わたしはみんなの宝くじではない。どのみちぜんぶ当たりのあみだくじなのに、わたしのゆく道を勝手に実況したり解説したり感慨深くなったりしないでほしい。わたしはたしかにずっと、特別になりたかった。特別になりたいとどこかで思っていたからこそ、様々なものが羨ましくて、妬ましくて、いろんな文句を言いながら日記を書き続けていた。でも、そのときのわたしだって、いや、むしろあのときの三角の目のわたしこそが十分に特別だったのだ。そう思ったら涙が止まらなかった。
くどうれいん『虎のたましい人魚の涙』講談社文庫 pp.102-103
くどうれいんは短歌よりもエッセイが好きだ。彼女のエッセイはどこまでも自分に正直で、羨ましさや妬ましさ、そしてちょっとしたひねくれを隠すことがない。私だったら、こんな感情を書き留めて人に見せるのは恥ずかしいというか、みっともないというか、自分がこんなことを思っていることを人に悟られたくないなという思いがはたらいて、多分書かずに隠してそんなのどこ吹く風ですよという顔をしてたいところだけど、彼女はそうしない。そして、彼女が正直に吐くちょっとした毒に、びっくりすることもあるのだけど、こんなに自分に正直で、特別になりたいという願い、多分誰もが持っているであろう、でも表に出すとちょっと痛い人に思われるかもな、と思うような願いもぜんぶ、言葉にしようとするその姿勢こそを羨ましく思うのだった。いいなあ。私もこんな、ひりひりした文章を書きたいなあ。でも彼女の文章は、ひりひりもするけれど、ユーモラスで、チャーミングだ。そのバランス感覚のよさというか、世界を見つめるその眼差しの色彩豊かさ、奥深さ、私は短歌のことはわからないけれど、それでもさすが短歌をやる人だなあと思うのだった。
そうそう、組版もぶじにだいたい終わりました。でも油断はできない。最近macは立ち上げるたびにファンをぶんぶん鳴らしてとてもおっかないので……とりあえずcloudに保存したから万が一このmacが壊れてもどうにかしたいけれど、やっぱりmacは5年も使えばそろそろ潮時なのかなあ。
でも、あとはデザイナーさんから表紙のデザインが上がってくるのを待つだけだ。楽しみだなあ。なんだかんだで久しぶりに作る同人誌、素敵な表紙になったら嬉しいし、デザイナーさんに頼む時点で素敵な表紙になることは当然である。以前、自分では創作をしない友達になんで自分で筆をとろうと思わないのか聞いてみたときに、「自分が書くよりも、人が書いたもので、ああそんなふうに書くんだ、そんなふうな展開にするんだ、っていう驚きを得たいから」という答えが返ってきたことがあって、私がデザイナーさんに表紙をお願いする理由もこれに近いかもしれないなと思った。私のぼんやりしたイメージが、人の手によってはっきりした形になって私の元に返ってくることが嬉しいのだ。誰かのイメージをはっきり形にできる人はどんな分野であれ尊敬する。世界を、心象風景を、デザインや絵画、音楽、映画、そして文学というあらゆる言語で立ち上げようとする営みは常に、いつでも、尊くてしょうがない。