今日は朝から家族で出掛けて、年始に親戚の家を訪ねるとき用の手土産お菓子を買いに行った。ブラウンチーズブラザーのお菓子を買ったのだけど、バターのいとこは知ってたけどブラウンチーズブラザーは知らなかった。自宅用に買ったかどうかは不明なのだけど、食べる機会があれば嬉しい。さっさと用事を済ませて帰ってきて、お昼ごはんを食べて、また買い物に出掛けて、それからぼんやりと本を読んでいたら東京から帰省してきた従妹が訪ねてきて、お土産をもらった。車乗ってるの? と聞かれて、いや乗ってないね……たまにかな……という答え方しかできなかったので雪が降らないうちにもう1、2回は乗りたいところだ……今月で仕事も変わって、外に出る機会が増える予定なので、そうなると社有車を乗るための認定を取らなきゃいけない話にもなるし。何事も練習しないと上手くならない……というのはわかっているけど、気が重い……事故りたくないという思いばかりが先に来る……いやでも、いつか県外の友達が富山に遊びにきてくれたときに案内できるようにはなっておきたい……
また本棚がみちみちになってきたので、ブックオフに売りにいきたいのだけど、売りたいと思う本がそんなになくて困った。となるともうちょっと溜め込んでからまとめて売りに出した方がお金も入るだろうし、年内は見送った方がいいのかな。でも、年内のうちにスッキリさせておきたい気持ちもある。でもほんの数冊持っていって、100円とか200円とかだけ渡されてもな……
引き続き、永井玲衣『これがそうなのか』を読んでいる。
多くの場合、世界に根ざしたひとは、自らの目で見回したものを、本に発見する。描かれたものを読み、刊行の二十年後に登場することになるナチス・ドイツを想起し「まさにそうだ」と思う。あるいは、権力の名のもとで、しかし誰もその内実を把握しないままにおこなわれる「治安維持」を重ねあわせる。現実が先立ち、本はそれをすばらしい仕方で映し出すのだ。
一方で十七歳のわたしは、本だけが「ほんとう」だったし、本が現実に先立ち、そのまま本で閉じていた。しかし、カフカは不条理の強度を高めることで、わたしを本の外へと押し出した。わたしにこんなにも「世界とはわけがわからないものだ」とはっきり言ってくれる他者はいなかった。そのおどろきで、わたしは撥ね飛ばされ、まったく異なる目で、あたりを見回すことになった。
そこには、それらがあった。すべてがあった。奇妙でよくわからない他者、ままならない身体、不安定な生が、うねうねとうごめいていた。
「これがそうなのか」
現実を眺め返すと「ほんとう」がより「ほんとう」として立ち現れていた。脈打ち、動いていて、奇妙だった。ほんとうに、これがあったのだ、と思った。
永井玲衣『これがそうなのか』集英社 p.181-182.
私の場合はどうだったかなと考えてみても、私は十七歳の頃、ほとんど本を読んでいなかった。今でこそ、というか、大学生になったあたりから図書館を利用することを覚え、まとまった量の本を読むようになったけれど、高校時代は勉強に忙殺されて、本を読みたいという気持ちはありつつも、本を読んでいる時間があったら勉強しろと思っていて(おまけに私は演劇部で脚本を書いていたから、なおさら読書の時間はなかった)だからそれを、本当にもったいないことだったと今でも悔やんでいる。私は本と現実を照らし合わせたこともなかったし、本の世界に生きていたわけでもなかったし、世界は確かにわけがわからないものだったかもしれないけれど、わけがわからないものを、わけがわからないものだと捉える感性が圧倒的に不足していた。十七歳だった私はただなんとなく生きていた。なんとなく生きて、わかったような顔をしていた。人の気持ちもわからずに、自分のことで手一杯で、できないやつには死ねと思い、人を傷つけることでしか存在できなかった、今思っても、悪魔みたいな人間だった。モンスターだった。私は勉強して成績を上げることより先に、モンスターから人間になる努力をするべきだった。その手立てとして読書が正解だったかどうかはわからない。けれど、本を読めば、わからないものをわからないものとして認識できて、人の気持ちを想像しようとする余白が生まれたかもしれない。過ぎたことをあれこれ言うのは生産性がないけれど、十七歳の私に戻れるなら、勉強もいいけれど、本を読みたい。永井玲衣のエッセイみたいな本に出会いたい。世界への、人間への眼差し方を変えて、壊してしまった人間関係の全てをやり直したい。