20240727

kyri
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公開:2024/7/27

結局なんやかやでオリンピックが楽しい。バスケの試合、時間間違えててチャンネル合わせたときには既に前半が終わっていたんですが(悲)面白かった。個人的には八村選手と馬場選手が同郷なので、頑張ってほしいなと思っている。同郷の人が2人もオリンピックで活躍してくれるのは嬉しい。もちろんバスケだけじゃなくていろんなスポーツにも同郷の人はいるけれど。まだまだこれからですよ。次に行こう。


今日も朝から勉強していたわけだけど、早々に嫌になってしまって、というか、再トライしてみた過去問が結構解けたことでちょっと安心して、持ち込んだ『みんなもっと日記を書いて売ったらいいのに』と『別れを告げない』を読み耽ってしまった。『みんなもっと〜』は前々から気になっていて、5月の古本市で出店していた新刊書店のブースで見つけたものだ。私もこうして日記を書いているわけで、まあこの日記については本にして売るつもりは一切ないのだけど、みんなもっと日記を書いて売ったらいいのに、という言葉にはそうですよねと頷いてしまう。いろんな人の日記が読みたい。

 まず生活の中のものは、現在の自分の時間軸に別の時間や記憶が流れ込んでくるような体験といえる。プールの例だと、これから起こるかもしれないことを過去の経験から想像していて、ちょっと「未来を思い出す」ような感じだし、文フリの行列の話では本当は並んでいないのに別の記憶で補完して並んだ気分を味わっていて、「ない記憶を思い出す」みたいな感じ。しかも私が原稿を書いたあと仕上げて提出するまで数日放置している間に今年の文フリがあったので、その記憶まで重なってしまっている。でも思い出すのはそういう複雑な体験なのだから仕方がない。

小沼理『みんなもっと日記を書いて売ったらいいのに』p.43.

私は今では日記を書くペースも落ちて、もっぱら金曜日〜日曜日の週末更新になってしまっていることで、たまに金曜日の日記でたとえば火曜日のことを書いたりして、この日記の時間軸は必ずしも「その日」だけじゃない。金曜日という日に身を置きながら、金曜日のことも思うし火曜日のことも同時に思い出している。そして私の場合はその日何があったか、という出来事だけを書いていたらもとより変わり映えしない毎日なので一瞬で書くことがなくなってしまうので、大なり小なり出来事ではなくてその日考えていたことも書く。そうなるとこの日記に流れる時間というものはもっと曖昧なものに希釈されているような気がしている。だけど同時に、考えたことというのも「その日」の思考なのだから、やっぱり時間には縛られているのだろう。「その日」に書かれた文章というだけでそれは「日記」として成立するのかも知れない。そう考えてみると、日記というのはすごく懐が深いというか、おおらかだ。

私はこの、人の目に触れるであろうことが前提のしずイン日記とはまた別に、常に2冊手帳を持ち歩いていて、一冊には都度、思ったことを日付つきでメモしたり、小説のプロットや断片を書き留めたりしている。もう一冊は所謂スケジュール帳で、週間予定のページにその日の日記を2行くらいで毎日書き留めている。そうして使い終えた手帳が部屋の片隅に積み上がっている。特に読み返したりはしないので書き残す意味とは? と思ったりもするのだけど、なんとなく、高校生の頃から続けている。このしずイン日記も日記であることは間違いないのだけど、誰かがこれを読んでいるかもと思うと自然と書く内容に取捨選択が生まれる。私のことをよく見せたいという思いももちろん働く。そうやって書いているこの日記にいる私は、限りなく個人的な存在ではあるけれど、でも同時に他所行きの姿であるとも思う。だけど、だからこのしずイン日記に書かれていることが全部飾られたものなのかと言えばそうでもなく、うーん。難しい話だな。と思っていたら良い文を見つけた。

非公開の日記は自分のための思考の流れの記録であり、頭に浮かんだことをとりあえず書き出しているだけでも成立する。しかし、この段階では、まだ考えができあがっていないことも多い。それが、他人や未来の自分に読まれることを意識してはじめてかたちになっていく。できごとの説明を書き加えるうちに自分の感情を観察する必要が生まれ、新しく書くことが生まれたり、認識が変化したりしていく、というように。

小沼理『みんなもっと日記を書いて売ったらいいのに』pp.31-32.

そう、そういうことです。だから私にとっては誰にも見せない、自分ですら読み返したりしない日記を持ち歩くことと、インターネットに日記をつけることは両輪であって、どっちが欠けてもちょっと居心地が悪いのだ。

星野 私は1冊目の本を書いた時、編集の方から「とにかく読んで」って言われたんです。「自分で読んでいてしんどくなる文章は書かないで」みたいに注意をうけて。

 今まで、どう書くかばかり教わってきたけど、同時にどう読むかにもっと力を入れるべきだなって思います。今は誰でも書ける場所があるからこそ、どう読むかについてみんなにも聞きたいし、そういう話ができると、もっと面白くなるのかなと思いますね。

小沼理『みんなもっと日記を書いて売ったらいいのに』p.83.

本当にそうです。私もずっとインターネットで自分の日記を書き続けてきたけれど、書いて数日というか、その文章を書いたときのリズムを体が覚えている期間まではその文章をすらすら読み返せるのだけど、今になって、先日コロナ禍のときに書いていた日記を読み返してみると読みづらくてびっくりしたのだった。自分の文章の読みづらさは書いてすぐにはわからないのだけど、体からその文章のリズムが消えたとき、それは正直に迫ってくる。

うわー、まじかって思う。でもこの読みづらさが消えないうちは、私に「読むこと」が足りてないんだと思う。私は多分昔も今もそこまで読書家ではなくて、それが地味にコンプレックスであるのだけど、でもこうして日記というくだけたスタイルであれ文章を書くからには(いや小説も書くけれども…)たくさん読んで、読んでくれた人がしんどくない文章というものを目指していかなきゃならないんだなあ。それは人生をかけて取り組むべき果てなき旅であることだよ。

@kyri
週末日記