新年度になり、勤続表彰を受けた。私の会社には永年勤続制度があるので、区切りになる勤続年数に達した人は表彰してもらえるのだ。そして私は今年で10年目になるという。新卒で入った会社で10年働き続けられるとは、というよりそもそも、大学を卒業して10年、生きているとは思わなかった。私は子供の頃から自分はずっと40歳で死ぬのだという妙な思い込みがあるのだけど、それに照らし合わせて考えるなら私が死ぬまであと6年ということになる。もう6年しかないのか、とも思うし、まだ6年もあるのか、とも思う。とはいえ40歳で死ぬと決まったわけではないのだし、というか40歳で死ねる方が現実味がないのだし、私の人生は私が思うよりまだまだ続いていくのだと思う。死に憧れることは生きることよりも容易いとはこの間ファスビンダーも言っていたとおりだけど、生きることは難しいけれど同時に容易くもある。少なくとも私は、今の私は、死ぬことがとても怖い。それに比べたら差し当たりとりあえず生き続けるという選択の方がずっと楽なんだ。
なんでこんな話になってるんだろう。とにかく、勤続10年を迎えられて感慨深い。この10年で数回休職したし、決して褒められた勤務態度でもなかったと思うけど、辞めろと言われることもなく、ここまで働き続けることができてひとまずは本当によかった。
大学の卒論口頭試問会の打ち上げで、卒業を前にして同期たちに「あなたは働かないと思ってた」と口々に言われたことを思い出す。彼ら彼女たちに見えていた私は学校にもあまり寄り付かず、部活に溺れていたかと思えばいきなり留学へと飛んでいったりして(とはいえ私のゼミの同期たちはほとんどが留学していてみんな卒業に5年かかっている)あまり行動に予想がつかなかったのだろう。だからこそ、さっさと就活を成功させて一抜けした私の行動もまた予想がつかないものだったんだろう。あの頃の同期たちとももう連絡をとることはないけれど、かろうじてインスタで繋がっている彼ら彼女たちはそれぞれ元気そうにしているようだ。彼女たちの子供の写真を見られるのは嬉しいことだと素直に思う。たまにストーリーズに送るいいねのタップに、私もまた生きてるし、あなたのことを見ているよというささやかなメッセージを込める。
通り過ぎていった人間関係ばかりだな、ということを最近ずっと考えている。私は人間関係の維持が本当に苦手だ。新しい友達を作ることは別に苦ではないのだけど、その維持が本当に難しい。中学の部活仲間も、高校のクラスメイトも、大学の同期も、みんな平等に遠ざかっていってしまった。人間関係とは本当に、そのときたまたま同じ場所にいただけ、でも同じ場所にいただけということが何より強かったのだということを実感する。同じ場所にいるというだけで出来上がった人間関係は受動的なもので、場所が散り散りになったあとでそれでも関係を続けようとするのは能動的なものだ。私にとっては、能動的な持続こそが人間関係に限らず一番難しい。この日記を始めたばかりの時も、続けることこそが一番難しいと書いた。そういうことなんだ。今、この手に誰もいないと感じて、それを寂しいと感じるならば、私の方から動かなきゃならないんだ、そんなことはわかってる。わかっているけれど、私の寂しさは長続きしないから、そのうち自分がこうして寂しいと思っていたことも忘れて、また人を遠ざけて生きていくんだろう。だけど、書くことは、これを読む人がどこかにいるはずだと信じて書くことは、私を寂しさから少しだけ救ってくれる。この画面の向こうにきっと誰かがいる。誰かが、私の言葉を拾ってくれる。もしかしたら、私がどこに宛てたのかわからないまま投げたボールを拾って投げ返してくれることがあるかもしれない。いや、実際にそんなことは過去に何度もあった。その経験に私は何度も救われてきた。だから書くことは、私はひとりじゃないのだと確認する作業なのだと思う。ひとりじゃないと思いたいから、私はこうして日記を、小説を、書くのかもしれない。