今日は朝から図書館。あんまり根を詰めて頑張ると落ち込んで死にたくなるというGWの反省を生かし、意識して休憩を挟むようにする。問題集もゆるゆるやるくらいでOK、それでも3周目に入った。過去問を一回分解いたのだけど、独検というのはめちゃくちゃ難しい回と全然簡単な回が交互にやってくる試験であることがなんとなくわかってきた。私の受ける回は全然簡単な回であって欲しい。今日は2時間半くらいで勉強はおしまい。勉強のやり方も年齢に合わせて変えていかなきゃならない。平日はできないとか言ってないで電車の中で単語帳見るくらいはやるべき。
今日は『私たちの話し方』を観ました。私もまだ頭の中がまとまってないから、かなり読みにくい感想になると思う(いつも読みにくいと言われてしまえばすみません)

大学2年生のとき、授業で『音のない世界で』(だったと思うけど)というドキュメンタリーを観た。それは聾者の親と同じく聾者の子ども、そして聴者の親と聾者の子どもという2組の家族がいて、それぞれ子供に人工内耳手術を受けさせるかどうか、その選択を追いかけるものだった。観ていて、聾者の親と聴者の親とでは、子どもが場面場面でどんな反応をするかということを全く真逆の観点で見ていることにまず、そうなんだと思った。例えば手話を日常的に使う学校を見学したとき、聾者の親は自分の子供が手話を使ってのびのびと楽しそうに授業を受けているところに心を動かされる。対して、聴者の親は同じ人工内耳手術を受けた子供たちを見て、その子たちがあたかも問題なく聞こえていることに心を動かされる。聴者の親は聾者の知り合いたちに自分の子どもに人工内耳手術を受けさせようと思うと打ち明けたとき、揃って「親のエゴだ」と反対される。「聾者の世界は素晴らしい」とも。だけど聴者の親は最終的には人工内耳手術を受けさせることを決意して、手術を受けた子供が生まれて最初の音を聞いたときの反応を喜ぶ。対して聾者の親は、まず子どもの方が人工内耳手術に興味を持つ。だけど聾者の親は反発してしまう。まずは親の自分が手術を受けてみようかと考えるけれど、大人になってから手術をして聞こえるようになったとしても、周りの音や人の言葉を問題なくわかるようにはならないだろうとお医者に言われ、やめることにする。それよりも、手話が使われている学校で娘がのびのびやっている様子を見たりして、この子はこのままでいいんだと思うようになる。最終的に、聾者の親の子どもは手術を受けない。「ママが決めた」と子どもは言う。「みんなで決めたでしょ」と親は言う。
私は、この、「みんなで決めたでしょ」と言った母親のことがどうしても、どうしても受け入れられなかった。なんでそんな卑怯な言い方をするんだと思った。手術を受けたいと言ったのは子どもの方で、それなら自分が聾者であることは置いといて、叶えてやるのが親じゃないのかと思った。手術を受けさせないと言うのは、それこそ聾者の方にあるエゴなんじゃないかとも思った。子どもが聞こえる世界に行きたいと言うのなら、行かせてあげてほしかった。最後まで観て、私に強く残ったのはそういう感想だった。あまりにこの聾者の親の選択がショックだったから15年経った今でも覚えている。そして使い始めたばかりのtwitterでつらつらと愚痴みたいな感想をツイートした。そうしたら実際の聾者の方からリプライをもらってびっくりしたけどちょっとやりとりしたことを覚えている。その人が「聾者は聾者で閉じこもってしまうこともある」と言っていたことをなんとなく覚えている。
15年経った。この映画を観て、ずっとあのドキュメンタリーのことを思い出していた。今なら、人工内耳手術を受けさせなかった聾者の親に憤っていたあの日の私が、まさに、聴者だからこそ憤っていたんだということがわかる。聞こえないよりは聞こえた方がいいに決まってると、無意識で私はそう思っていた。健常者と同じ水準で生活できるようになるならそれがいいと。だから人工内耳をつけるという選択こそが聾者の人を幸せにするんだと。だけど、人工内耳を付けたからといって100%聴者と同じようには聞こえないということ、頑張って一般企業に就職したとしてもできることは限られてしまうこと(周りの人が善意で制限してしまうこと)、聴覚障害者の自分を採用したことによってうちはこんなに障害者雇用を進めていますという対外アピールの材料にされてしまうこと、劇中でソフィーも言っていたけど、人工内耳を付けて「普通の人」になろうとしたけど、その「普通の人」の基準は思っていたよりずっと高くて、どれだけ頑張っても結局聴者と同じレベルには到達し得ないということ、そういうことが、人工内耳を付けたとしても聾者の人には待っているのだということに私は思い至らなかった。どこまでも聴者として物事を見ていた。聾者の人にはそんな困難があるということを、全く、考えもしなかった。
だから手話を知らなかったソフィーがジーソンやアランと出会って手話を覚えていくうちに、大きく息ができるような心地がしていくこと、やっと自分が自分で表現していると感じられるようになること、全部が、そうなんだね、と思っていた。そうなんだね、わからなかった、私は何もわかってなかった。もちろん、人工内耳を付けて、口語を覚えて、話せるようになって、得たことはたくさんあったと思う。でも、頑張って自分を聴者に近づけようとするのでもなくて、聾者は聾者のままで、そのアイデンティティを大事にして、自分らしくいられる、大きく息ができる、そんな道を聾者と聴者の双方が希求していくべきなんだろう。人工内耳を付けて、手話と口語の両方を難なく使うアランみたいないいとこどりができれば一番なのかもしれないけど、そんな器用な人ばかりでもないだろうし。アランを見ているときが一番安心して見れたというか、聴者も聾者も否定しないスタンスがすごくありがたかった。でも自分の道を貫くジーソンが魅力的に映ってしまうのも、そうだよね……と思うのだった。でも私はアランに幸があってほしい……
15年間引きずった考えごとに一つのアンサーをもらったような気持ち。でも、15年考え続けてきたんだから、これからも考え続けていくと思う。15年前と比べて聾者の人にスポットライトを当てた作品も増えてきているのが嬉しい。考える材料はまだまだたくさんある。