昨日は婦人科と歯医者の予約があったので勉強はしてない。一日を通してずっと寝てて、そのせいで夜になっても眠くてしょうがなかったので日記も書かなかった。ここ最近はずっと週末の日記は休まずに書けていたから地味に落ち込む。書くほどの一日ではなかったということで自分を納得させたい。でも、書くほどじゃない一日なんてもしかしたらそんなもの、ないのかも知れない。どんな一日だろうと書き残すに値するものかも知れない。そんなことを言って、結局週末にしか書かないけど。
今日は勉強……と書きたいところだけど、いつも行ってるミニシアターで『オッペンハイマー』がかかったので、初見の苦い思い出を払拭したく、観に行ってきた。パンフレットでオッペンハイマー周りの人間関係を予習し、眠気覚ましの薬をぶち込んで臨んだらあまりにも頭がクリア、そうだよこの感覚を私は求めていたんだよ。改めて観てみたら、やっぱり巧みな映画だなあと思ったのだった。私は前作『TENET』がまじでわからなくて、他人が書いた500ページくらいの考察文を読みたいとずっと思っていたんだけど『オッペンハイマー』はまだこの脳でなんとかfeelすることができているような気がする。ここからはちょっと映画の内容に触れるけど、ストロースがオッペンハイマーへ不信感を抱くきっかけとなった出来事は、アインシュタインが彼を一度だけ無視したというほんの、ほんの些細なことであることの、その見事さを感じていた。そのほんの些細な出来事が水に石が落ちた時の波紋のように、物語を広げていったんだなあ。ノーランはそのフィルモグラフィーを通してずっとバタフライエフェクトを見つめ続けてきた監督だと思っているのだけど、この『オッペンハイマー』に関しても、バタフライエフェクトの映画だなと思う。まさに蝶が羽ばたいたその小さな波動にこそ物語は発生する。
そして2本目は『風が吹くとき』。私はこの映画を全く知らなくて、映画館のマンスリーガイドで見つけてなんか8月に良さそうな映画だなあというほんの軽い気持ちで見にいった。ら、もう怖すぎた。そんな可愛い絵柄でこんなことをしないでくれよ。核が投下されて壊滅状態になった街のはずれで生き延びた老夫婦が、焼死は免れたもののその後の被曝でどんどん具合が悪くなりどんどん破滅に近づいていく様はまじでトラウマになる……。シェルターから出ないでくれ、外に出ないでくれ、雨水を飲まないでくれ、だけどこれは私に被曝というものの知識があるから言えることなんであって、何も知らなかったら同じことをしたかも知れない。夫婦が最後まで「お上がなんとかしてくれる、お上がきっと助けてくれる」と言い続けていたのが本当に辛かった。その「お上」はきっと核攻撃で壊滅しているだろうこともそうだけど、こんなひどい目に遭ってまで、それでもこの人たちは「お上」を盲目的に信じている、その、純粋さという皮を被った愚かさに打ちひしがれてしまったのだった。だけどこの夫婦と自分とで何が違うだろうかと、自分だって何だかんだ「国がなんとかしてくれるでしょ」と思ったりしていないだろうかと、いや、実際国はなんとかする義務があるしそう思うことはある意味では正しいのだけど、それでも、自分の頭で考えるということを奪われてしまった、自ら捨ててしまった姿はこんなにも愚かなのだ。本当に怖い映画だった。映画館を出ても、今このとき核が落ちてきたらどうしよう、なんて、本気で怖かった。原爆をめぐって『オッペンハイマー』で科学者と政治の世界を見て、『風が吹くとき』で市井の人を見た。まさに8月といった一日だった。もうすぐ8月6日が、9日がやってくる。
映画と映画の間に『中学生から知りたいパレスチナのこと』を読んだ。『ガザとは何か』に続いて、まだまだ学ぶことはたくさんある。だけど、これが単なる知的好奇心からくる読書欲にすぎないということもまたわかっている。スタバとマクドの一人ボイコットくらいしかしてない、たまに思い出したようにツイートするくらいしかしてない、そんな自分を許してやりたくて、せめて本を読んで、そうやって、逃げていないだろうか。でも同時に、こうして自ら本を読む人はもうすでにパレスチナ問題への関心が高い人で、結局届いて欲しい人には届かないんじゃないかという思いもある。届いて欲しい層ってどこなんだという話ではあるけど。でも、広く読まれるには限界があるんじゃないかという話。どうしたらいいのか。でもこの本は『ガザとは何か』と同じようにセミナーの文字起こしの体をとっているので読みやすくてわかりやすかった。『ガザとは何か』の復習をするようでもあったし、小山氏、藤原氏というヨーロッパ史を研究しているお二方の視点から見るパレスチナ問題というのも、そういうことだったのか、という気づきがたくさんあった。世界に流れる物事の全ては繋がっている。ヨーロッパで差別・迫害されたユダヤ人がパレスチナを目指したこと、イスラエルがパレスチナ人を放逐したやり方はかつて日本が満州国を建国したときに現地の人を放逐したそのやり方であること、アウシュヴィッツを絶対悪だと掲げるからこそ、もう二度と反ユダヤ主義を起こさないという誓いがあるからこそ、ドイツは今もイスラエルを支持すること、平和と人権を掲げる西側諸国でありながらかつての自身の植民地主義の思想と過去そして現在には目が向かないこと、そして、原爆という兵器を開発したのもユダヤ人であるオッペンハイマーであったこともきっと繋がっている。そういう、長いスパンで歴史を捉えることが重要であって、そうしたら、「憎しみの連鎖」とか「暴力の連鎖」とか、そんな安直な言葉でこの問題が片付けられることでもないことがわかる、のではないだろうか。
意図的に勉強しなかった休日だったけど、勉強しないだけでこんなにいろんなことができるのか……やっぱり早く試験終わってほしい。受かっても落ちても、とりあえず終わって欲しいよ〜〜何もできん……。