20241013

kyri
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公開:2024/10/13

今日は怠惰が発揮されて、朝方に家の芝生の草むしりをやった以外は引きこもってずっと本を読んでいた。8月の夏季休暇で積読していた谷崎の『細雪』を読んだのだけど、その流れでもうちょっと昭和の人の小説を読みたいな〜と思っていて、久しぶりに三島を手に取ることにした。三島を読むのはいつぶりかも分からないけど、久しぶりに読んでみて、やっぱり、彼の政治的思想は一旦横に置いといて、文章が上手くてユーモアもあって魅力的……という気持ちになる。

 幼児が自動車に轢き逃げされて、血まみれの体を路上に横たえたというニュースをきくとき、数十人の死傷者を出した列車事故や、数百戸を一ト呑みにした洪水のニュースをきくたびごとに、彼は身をすくめて、自責の念におののいた。この同じ地上に住む以上、すっかり統一感を失った社会とはいえ、彼はやはりあらゆる犯罪、あらゆる不祥事に対して、無答責であるとは云えないのだ。そしてこういう身を裂く苦しみだけが、世界の全体感を回復するかもしれないのだ。彼がある朝、庭の生垣の茶の花の一輪を摘むときに、この地上のどこかでは、ふしぎな因果関係によって、(おそらく摘まれた茶の花が原因をなして)、誰かが十噸積のトラックの下敷きになっているかもしれないのだ。

 それでも、なおかつ、彼の肉体が痛まないとは何事だろう! 一人の人間が四苦にもだえているとき、その苦痛がすべての人類に、ほんのわずかでも苦痛の波動を及ぼさないとは何事だろう! こんな肉体的苦痛の明確な個人的限界につきあたると、重一郎は又しても深い絶望に沈んだ。どうしてあの原子爆弾の怖ろしい苦痛ですら、個人的な苦痛に還元され、肉体的な経験だけで頒たれることになったのだろう。あの原爆投下者の発狂の原因は、彼にはありありとわかるような気がした。苦痛のなさ、毛筋ほどの、痒みほどの苦痛もなかったことが、彼を発狂させたのだ。

三島由紀夫『美しい星』新潮文庫 p.18-19.

これは本当にそうで、能登半島地震であれ能登豪雨であれガザの戦禍であれ、なんでもいいのだけどこの世にあるあらゆる苦痛に対し、自分は安全で無事な場所にいるということが時折耐えられなくなる。だからと言って自分もその苦痛に体を浸したいかと言われるとそれも嫌なのだけど、嫌だなと思うことが嫌で、その罪滅ぼしをするかのように、例えば私の場合はわずかな額ながらも寄付をしたりする。叫び出したいときというのは自分が苦痛に苛まれているときだけじゃなく、自分は全く無事であるときでもそうなのだ。まさに今、前述の地震だったり豪雨だったり戦禍だったりに対して自分が感じていたことをずばり言い当てられたみたいで、やはり三島は流石の三島だったと畏敬の念を禁じえない。三島もこんなこと考えたりしたんだなと、自分との共通点が見つかったみたいでちょっと親近感も湧いた。

三島については大学時代に彼の大ファンだったひとつ上の先輩がいて、その人の影響もあって読み始めたのだけど(驚くべきことに私は大学に入るまで三島由紀夫をほぼ知らなかった)あの先輩は今どうしているかなとふと考えるときがある。その先輩に限らず、今はどうしているかなと思う人、それはどのSNSでもつながっていない人に対してそう思うのだけど、そういう人は結構たくさんいることに気づく。縁というものは能動的に働きかけていかないとすぐ切れる。切れてしまってもまた結び直せることもあるのかもしれないけど。とはいえ、私はその先輩のおかげで今も三島を読んでいる、ということは、その先輩は今も私の中に生き続けているということだ。かつて誰かと関わっていた痕跡というのは、そういう形でも有機的に残っていく。


とはいえ三島ばかり読んでいると疲れるので並行してくどうれいん『日記の練習』も読み始める。おもろい。人の日記、おもろすぎる。なんでこんなにおもろいのか。引用したくなる文章ばかりで目移りばかり。やっぱり日記本はいい。だけどこう思ったそのあとに、果たして私の日記もまた誰かに面白いと思ってもらえてるんだろうか……とちょっと不安になる。いや、究極のところ10人に読んでもらって10人につまらない日記だなと思われてもそれはしょうがないなとは思うものの、一応、こうやって人に読んでもらう体で日記を書いている身としては、ちょっとは読むに値するものだと思われていて欲しいなあと思うのであった。

10月18日

日記が日々を追い越してしまっても、日々が日記を追い越してしまっても、日記を書くことができなくなる。日記を書くことが出来る日というのは、一日に起こることが日記に適切なサイズの日だよなあと思いながら空白の日付を眺めている。適切なサイズにするためには、同じ時間に机に向かっていたほうが良いような気がする。明日から出来るだけそうする。

これも本当にそう。私が平日に全然日記を書くことができないのは平日に起こることが仕事以外になさすぎるから。とはいえ、『日記の練習』を読んでいると一行で終わっている日もたくさんあって、そんな気楽さでいいなら私ももっとたくさん書けるのかもしれないなと思う。どうしても私は質より量を書きたいというか、このしずイン日記もどんどん長くなっていっているのだけど、日々の日記というのは本来はそのくらいシンプルでもいいのかもしれない。そしてくどうれいんの一行日記は一行なのにそれがとっても魅力的な一行なんだった。ううう、こんな日記を書きたいものだよ。

『日記の練習』についてはこのインタビューが良かった。

私は小説や絵本などの創作作品のほかに、エッセイなどで自分の生活を書くことも仕事にしています。そうすると、「私生活を書くこと=赤裸々」というイメージで、書き手が本心やヒリヒリした感情を差し出していると思っている方が多いように感じます。でも、うまい文章って、必ずしも自分の身を切って赤裸々に書く必要はないんですよ。「自分のことをさらけ出して勇気がありますね」って言われるたびに、「そうじゃない、私は書く訓練をしてきて編集したものを出しているのに……」と思ってしまいます。そういう目線に対して、エピソードをさらけ出すことが全てではないということを言い続けたい。書き続けていれば、本当のことを書きながらも書きすぎないようにできるんだよ、と。

うまい文章は必ずしも自分の身を切って赤裸々に書く必要はない。私もこういうバランス、早く取れるようになりたい。でもうまい文章ってなんなんだ〜私にはそれもまだわかんないところがあるよ。

@kyri
週末日記