小学2年生。9月のはじめ、祖父が危篤に陥った。私たち姉弟は夜中に叩き起こされ、車を飛ばして病院へと向かった。病室に着いてみれば、そこには親戚が勢ぞろいしていた。一度も話したことのない人もいれば見たことすらない人もいた。そんな人たちに囲まれて、祖父はしずかに、しずかにそこに横たわっていた。私には、一体何が危篤なのか理解できなかった。何故この人たちはこんな夜中にじいちゃんのもとにわざわざ集まっているのか、何故父さんは気持ち悪いくらいに明るい声で眠っているじいちゃんに話しかけているのか、きっと隣にいた幼い弟にも分からなかっただろう。私にとっては、祖父が「危ない」ということよりも、自分は今夜中に病院という場所にいること、知らない人がたくさんいること、そっちの方が差し迫った事件だったのだ。
しばらく、私と弟はドアの近くに並んで立っていた。隣には母がいた。その母が、途中で私たちを暗い暗い夜の廊下へと連れ出した。
母はしゃがみこんで小さな私たちふたりに目を合わせ、私たちにしか聞こえないくらいの小さな声ではっきりと言った。
「じいちゃんは、もうすぐ神様のお迎えが来る。これでさいごだからね」
私は頷いた。隣で弟も頷いた。母は私たちが両方頷いたのを見て、私たちを明るい病室へと戻した。「これでさいごだから」と言われたあとに私の目に映った病室の光景は、だけどそれでも変わらなかった。何も悲しくはなかった。母さんが覚悟を決めて私たちに伝えたことは、私には届かなかったのだ。私にはそれでも知らない人がたくさんいること、今が夜の病室であること、それだけが大事だった。何も悲しくはなかった。
祖父のすぐ隣に座った父が、戻って来た姉弟を手招いた。私たちは言われるままに知らない人をかきわけるようにそこに行った。
父は、近づいてきた私を引き寄せ、いきなり手を取った。8歳の私の手を眠る祖父の手の甲に重ね、自分の手でぎゅっとくっつけたのだ。
「これが、ちいやぞ。わかるか、これが、ちいやぞ」
私は、そこに祖父の体温があったことを多分もう覚えていない。今の私が覚えているのは多分、私の手の上からさらに重ねられた父の手の温かさと、さかんに「これが、ちいやぞ」と呼びかけつづけた父の声だけだ。父の声は元気だった、笑っていた。8歳の私は、父さんは何故こんなに楽しそうなんだろうと不思議に思う。だけど今ならわかる、14年経った今なら、大人にも空元気というものがあると知っている。
私の手は祖父から離れる。次は、弟の番だった。
だけど、弟はそこで泣きだした。誰の顔も見ずに、ただ眠る祖父だけを見て泣いていた。周囲がざわつく。隣にいた父は「なんで泣くんよ」と必死に笑う。弟は、ただ声も上げずに泣いている。それを、8歳の私がつめたい目で見ている。
お母さんがあんなことを言ったからだ、この子は本気にしちゃったんだ。お母さんのせいだ。幼い私は弟をなだめようともせず、ただ黙ってつめたく彼を見ていた。
父はそれでも弟を引き寄せて、私にしたように彼のさらに小さな手を祖父のそれに重ねる。同じことをする。「こっちはのぶやぞ、わかるか」弟は泣いている。
今思えば、あのとき、あの場所でいちばん混乱していたのは父だったことだろう。いちばん無理に笑っていたのは父だったのだろう。いちばん、泣きたかったのはきっと父だったのだろう。14年経った今でも思う、私の父にとって大事だったのは祖母よりも祖父だ。父の最愛はまぎれもなく祖父だった。それは多分今でも変わっていない。
その日、祖父にはだけど神様はやってこなかった。幼い姉弟を連れた私たち家族は帰路についた。帰りの車の中で、私は起きていた。隣で弟は眠っていた。
それから多分一週間ほど経って、祖父は逝った。私の家は知らない親戚の人たちで溢れかえった。私はいつも黒い服を着せられた。居間のソファに座って、祖母の妹である人が「なんでこんなことに」とハンカチを片手に泣いていた。今でもはっきりと覚えている。
*
利き手が遺伝するものかは知らないけれど、私の祖父は左利きだった。左利きで生まれてきてしまった私は、よく祖母から「じいちゃんも左やったからねえ」と言われた。
だけど、その祖父は私にことさら厳しかった。私が生まれたときにはもうすでに喉の病気で声を失くしていた祖父は、自分の意志をよく紙に書いた。私にも書いて渡した。
文字には、声色というものがない。そして祖父の言葉はいつも簡潔だった。本当に、要点しか書かなかった。
「ひだりききは あとでそんする」
祖父は、左利きをやめろという意味のメッセージを何度も私に手渡したはずだけど、私が今でも覚えているのはこの一言だけだ。多分、小さな私がどうして左利きではいけないのかと尋ねたその返事のような気がする。そん? 聞き返した私に祖父は頷いた。何度もこの言葉を書いた。それはそのまま、祖父が今まで感じてきた損の数だったのだろう。
そして父もまた私に厳しかった。私が安心できるのは食事のときだけだった。「箸は左でもいいんだぞ」父は何度も私に言った。私は頷くしかなかった。まだ祖父が病院でなく、家に居たとき、彼もまた左手で箸を持った。「父さんは、そんなじいちゃんが好きだったんだよ」あとで父は私に泣きながらこう言った。
*
祖父が死んで、幼い私はいくらか楽になったのかもしれない。祖父の死後も、私はしばらく両親の言いつけ通り右手で文字を書く練習を続けていた。何度も何度もひらがなをノートに書いた。左手で書く文字と比べて圧倒的にいびつで汚い文字たちが憎くて仕方が無かった。祖父の死後から2ヶ月ほど経って、私はついに爆発した。それでも勇気が無かった私は「もういやだ」と母にしか言えなかった。すぐに私は父に呼び出され、2回ほど説教を受けた。左利きであり続けることがいかに損か、周りから左利きはどう見えているのか、ふたりきりにされて延々と繰り返された。私は泣いた、父も泣いた。私はそのとき、はじめて父が泣くのを見た。あとにもさきにも、あのときだけだ。
「じいちゃんも左利きだった、だけどじいちゃんはちゃんと字は右手で書いてた。でも、箸はずっと左手だっただろ。父さんは、そんなじいちゃんが好きだったんだ。じいちゃんは、死んじゃったけどな」
父さんは私に泣いてこう言った。
父さんはとても卑怯だ。そんなことを泣いて言われては、もう幼い私に打つ手なんてあるはずがないのだ。結局わたしはそうして丸め込まれ、右利きを目指すしかない。「わたしとじいちゃんは違う」「左利きだって個性だよ」そんな言葉が何になるというのだ。ただただ、間違っているのは私の方だったのだ。左利きは間違いなのだ、存在してはいけないのだ。私は泣きながら「わかりました」と言うしかなかった。
だけど、それでも私の矯正は終わった。すぐに私はまた爆発し、父はとうとう諦めた。14年経った今の私はもう右手で文字など書けやしない。それでも、父の前でペンを持つとき、今でも不思議に緊張する。
*
だけど祖父は、もしかしたら、私はもうすでに左利きであった自分を忘れていると、そう思っているのかもしれない。自分がそうであったように、私が文字は右手で書き、箸は左手に持つという女になったと思っているのかもしれない。だってあの夜、そして、葬式でも泣かなかった私を祖父は知らないのだ。泣いたのは右利きの弟だけだったのだ。
だって、あの夜父が選んだのは私の右手だったのだ。父は私の右手を祖父の左手に重ねた。「これが、ちいやぞ」私は最後に、右手で祖父に触れたのだ。私は最後に、嘘を吐かされたのだ。「わかるか、これがちいやぞ」そこには何もなかったのに。私の命は左手にしか宿らなかったのに。
祖父はきっと、私の右手しか覚えていない。いつか私が死んだとき、ちゃんと説明しに行かなければならない。
ひだりて / 20130108 (1998.9)