Put your hands up(2016.07)

kyri
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「いつのかわからん花火が出てきました。卒業祝いに一発やりましょう。8時に学校集合で」

 卒業式を来週に控えた土曜日の夕方、椎名から飛んできたのはそんな一文のメールで、そのときベッドに寝転がって漫画を読んでいた僕はひとり、いつのかわからんって何だよ、と携帯の画面に向かって独り言。時計を確認すればもうすぐ19時。彼の呼び出しはいつだって急だ。携帯を閉じる前に、僕はこのメールの宛先に陸の名前も並んでいるのを見た。果たして彼は、20時に間に合う時間に家を出るまでにこのメールに気づくだろうか。

 だけど椎名の誘いはいつだって急だけれど、それを理由に僕と陸が断ったことなど一度もない。僕は起き上がり、部屋を出る。


 大学受験が終わり、日々が一気に薄まって、そして足が止まったような気がする。毎日毎日、追いかけられていた。少しでも休もうとすれば、背後から飛び蹴りを食らわされるんじゃないかと思うような、差し迫った焦燥感があった。受験さえ終わればこれも終わると頭ではわかっているつもりでも、いつしか、この日々が永遠にも続くような気になっていた。終わりが来るということを、そして終わりが来たあとのことを、何も想像できなかった。将来の展望など、本当のところは何もなかった。そのことに気づいたのは、いざ私立入試を終えて、ひとりになったときだった。その瞬間に、やっと、空っぽになった自分に気づいた。それから日々の密度は、蓋を開けてみれば何もなかった、みたいな感じで、突然なくなった。勉強を詰め込まれていた場所が空洞となり、飛び蹴りの気配は消え、心に空いた穴を実感して、走り続けていた足はぴたりと止まった。息が切れているわけでもなかった。疲れたという感覚もなかった。ただ、足が止まった。

 そして、友達だったはずの教科書や参考書を、二度と開かなかった。

 今、僕の前に広がっているのは解放感よりも先に、圧倒的な空虚だ。

 3月頭の夜は雪こそようやく溶けてくれたものの、まだ冬の気配を色濃く残していて、外に出てすぐに吹き付けてくる冷たい風に頬が一瞬で冷える。ふうっと息を吐いてみると、うすい煙のように白く色が変わって消えた。

 自転車に乗り、海までの一本道をまっすぐに抜けた。もう完全に暗くなっている世界でもちろん海の輪郭は見えず、規則正しいリズムで耳に訪れる波の音だけで、今日の海も変わらず海のままでいることを知る。吹き付けてくる海風。この町の人間でなければ、この風に驚いて自転車から転んでしまうことも、もしかしたらあるのかもしれない。

 ちりん。背後で同じ自転車の鈴が一度だけ鳴った。振り返らないまま、その自転車のために道をあけようと右に寄ると、智尋、と今度は声をかけられた。

 振り返ると、ほとんど夜に溶けるか溶けないかのぎりぎりの境界に、陸が自転車をこいでいた。僕はスピードを落とす。そこに陸が音もなく速度を上げて、僕の隣にやってくる。

「めずらしい、お前がチャリとか」

「椎名のメール気づかなくてさ、歩きじゃ間に合わないと思って」

「そうだよな」

「あいつは、いつも思い立ったら吉日だよね」

 陸は、そう言って小さく笑った。

 海道は、自転車が二台並べば幅は埋まってしまう。だけど、こんな時間に自転車をこぐ人間なんてこのしけた町にはほとんど存在しない。時折思い出したように世界が車を走らせて来るだけ。今、この波音を聞いているのも、僕たちだけ。僕の心の空洞に波音が入り込んで、必要以上に、ざん、ざん、と響く。

 時折挟まれる、自転車のちりちりちり、というチェーンの音。


 校門で椎名がすでに待っていた。右手に、いつのかわからないらしい花火の袋、左手にバケツ。自転車は無造作に停められていて、僕たちの自転車を停めようにも少し難しい。

「どーもおふたりさん」

 椎名が花火の袋を掲げた。

「卒業祝いってことで、一発どうすか」

「ちゃんと火点くのかよ。湿気てるんじゃないの」

 陸が言った。椎名はそれに即、わからんと答えた。

「わからんってお前」僕が言う。

「まあ、点かんかったらそれはそれで、ケイドロでもして遊ぼうぜ。さあグラウンドへ、レッツゴー」

 椎名は今度はバケツを高く掲げ、僕らを先導するように軽やかに歩き出したと思ったら、あっと声を上げ、すぐに立ち止まって振り返る。僕らの足も、彼にぶつかる前に止まる。

「ミスった。火つける奴忘れた」

 僕と陸は顔を見合わせる。溜息をついて、陸がポケットに手を突っ込んだ。

 彼が取り出したライターを見て、椎名がにかっと笑う。

「それでこそ、僕らの陸くん」


 ナイター設備も死んだようにただぼうっと突っ立っているだけの、まるで空洞みたいなグラウンド。昼間よりも、水たまりが大きくなるかのように、広く感じた。僕たち三人のほかには誰もいない、何も、見えない。世界にたった3人しかいないんじゃないかと思うくらいの、広大な孤独。

 椎名はずんずんと進んでいき、ちょうどこの空間の中心にきたところで立ち止まった。バケツを下ろし、少し水が跳ね、しゃがみこんで花火の袋に手をかける。ばりばりと袋が破られる音も、響いて聞こえる。

「どれからいく? やっぱ派手そうなもんから先にいっとくか」

 椎名が袋の中を吟味して、これとか、と言いながら数本を取り出した。一本ずつ取って、向かい合って、立つ。

「陸、つけてみてよ」

「俺から?」

「ライター持ってんじゃん。そのあと智尋に回して」

 陸が、ライターを握りなおした。花火の先に手を伸ばし、かちっ、と、音が鳴る。さあ、点くでしょうか。椎名がにやにやした声で言う。僕は何も言わず、陸の花火の先を見ている。

 陸の右手でオレンジ色の光が起こり、花火の先が、静かに触れる。

 しばらく、音はなかった。僕も、椎名も、陸も、その火をただ見ていた。

 やっぱりだめだったかな、と3人とも思い始めたとき、しゅううっと、息を吹き返したかのように、花火は七色の光を散らし、燦然と燃え始めた。

「よっしゃ! ほれ智尋、次つぎ」

 僕は陸からライターを受け取ろうとしたけれど、陸は一度だけ手をひらりと外から内へ動かした。そして、手元でもう一度、かちっとライターを鳴らした。僕はそこに自分が持った花火を差し出し、また、じっと待つ。しばらくすると同じしゅううっという音が重なり、僕の手の先からも七色の光が飛び出した。

「椎名」

 陸が、下から上へ腕を振り、ライターが投げられた。いきなりだったけれど椎名は難なくキャッチして、「俺には点けてくれねえのかよ」と笑った。かちっ。椎名の左手があたたかく光る。そして、しゅううっと、花火が燃え出す。

 嬉しそうに、満面の笑みを浮かべた椎名は、燃え盛る花火を、高く高く掲げた。

「みんな、卒業おめでとう! 俺たちの将来に、幸あれ!」

 七色の光に彩られて、椎名の声は高く飛んだ。僕は彼が掲げた光を見上げる。打ち上げ花火には、あまりにも低い。僕たちの卒業を祝うには、あまりにも、ささやかで、この世界の空洞、僕の心の空洞の前にはせいぜい点くらいの存在感しかなくて、それでも、僕の心がどうであるかなんて関係ないところでこの花火は椎名に見つけられ、そして、残り滓程度にしか残っていなかったかもしれない命でもこうして、最後に思いっきり、輝いている。

 僕は陸を見た。七色に照らされた彼。今、彼は微笑んで、椎名にならうかのように、手にした花火を高く掲げた。

「卒業、おめでとう」

 だから、僕も手を上げなくてはならなかった。

 僕だけが、ひとり残るわけにはいかないから。

「おめでとう、みんな」


 3年間は過ぎた。当たり前のように僕らのもとへやってきて、そして、当たり前のように僕らの手から離れていく。だけど、その3年間は、僕らをずっと待っていたものでもあった。僕らの将来を形作るために、僕らをこの町から送り出すために、僕らを、ずっと、待っていた。そして、役目を終えたあらゆる時間たちは、今、僕らに手を振っている。元気でと、そう伝えている。僕らは、輝いていただろうか。命を燃やしていただろうか。高校時代というゆりかごの中で、僕らの存在は、点くらいの大きさでも、そこにあってくれただろうか。

 僕は。僕は、椎名と生きて、陸と出会い、目を覚ました。ずっと、ずっと一緒にいた。あらゆることを共有した。いつもノートを借りに来て、授業中は寝てばかりいた椎名。このグラウンドを風のような速さで駆け抜けていた椎名。帰り道に鼻歌を歌いながらたらたらと歩いていた椎名。授業中は完璧だけど、椎名とは反対に休み時間を寝てばかりいた陸。学年一の美青年だともてはやされていた陸。案外、運動は得意じゃなかった陸。恋をした陸。僕が、好きだった陸。

 彼らは、そこにいて、それぞれが、生きたのだ。それぞれが自分の力で、生きたのだ。

 何でも手に入ると思っていた。この時間の中にはあらゆるものがあると思っていた。これが世界のすべてだと思っていた。だけどもうすぐ、ここは壊れる。


「そういえば智尋は大学受かったけどさ、陸は?」

「俺まだ結果出てないよ」

「はっ? 遅くね? もう卒業だぜ俺ら」

「二次試験もあったから、発表は卒業のあと」

「なんだ、じゃあ卒業してもそわそわしっぱなしだな。落ちてたらどうするよ」

「どうするも何も、浪人だろ」

「陸が浪人とか! うける」

「心配するな、落ちないから」

 椎名は燃え尽きた花火をぽいぽいバケツに放り込んで、次々に新しい花火へ火をつけていく。陸も、しゃがみこんで椎名が持った花火に火を点けていく。僕の花火はとっくに燃え尽きていて、僕はそれにも、気づかなかった。

「智尋」

 陸が、まっさらな花火を差し出してくる。笑顔と一緒に。

「サンキュ」

 きみが、そんなふうに笑えるようになって、本当によかった。

 僕の陸。僕の、大好きな陸。だけど、僕は君の何をも手に入れていない。これからも愛するだろう、誰より大事だと思いつづけるだろう。だけど僕は、君の旅立ちを、椎名と同じようにして、ここから見送るのだ。そして、君は僕を見送るのだ。

 僕の心の空洞も、別の何かで埋まっていく日がやってくる。

 形のないものを形作り、名前のないものに、名づけていく。

 卒業、おめでとう。

 さよなら、僕たちの小さな世界。


Put your hands up / 20160706

足掛け10年構想し続けていた創作BLのスピンオフ短編。

@kyri
週末日記