20241102

kyri
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公開:2024/11/2

もう11月になってしまった。最近は日記に書くこともblueskyでつぶやくことも見つけられずにぼんやり過ごしている。平日はなんとなく気分が落ち込みがち。というのも、私は今地元で暮らしているわけなのだけど、毎日通勤で電車を使うときや会社まで歩いて行くときに地元の高校生と毎日顔を合わせていて、そこには当然私の母校の制服の子もいて、何が起こるかというと、自分が高校生だったときのことを思い出して鬱々としてしまうんである。私の高校生時代は決して不幸せではなかったし今も付き合いが続く仲間もできたしかけがえがなかったと自信を持って言えるけれど、それでもあのときこうしてればよかったな、と思うことの連続で、そういう後悔に今も苛まれている。大阪にいたときにこんな後悔に苛まれることって滅多になかったから、地元にいることの弊害の一つなんだと思う。地元にいることは私にとっては9割はいいことだけど、残りの1割には苦しめられる。だけど私はこれからも当分は地元にいたいと思ってるから、耐えるか、慣れるか、しなきゃいけないんだな。本当に耐えられなくなったら場所を移るのかもしれないけど。思えば私は過ぎたことを振り返って後悔ばかりしている。それも、やってしまったことや言ってしまったことに関してずっと後悔してる。やらなかった後悔よりやった後悔とは言うけれど、やった後悔の方がずっと辛いんじゃないだろうか。できれば私はやらなかった後悔で苦しみたかった。でも、don't look back in regretだよ本当は。何に関してもdon't look backでいたいです。でも基本的にdon't look backだから私はPDCAが回らないDDDD人間なんだろうな……


今日は雨も風も酷かったのでずっと部屋に引きこもって、先週の日記で書いたoasisのドキュメンタリー『supersonic』とリアムのドキュメンタリー『as it was』を観ていた。

『supersonic』→『as it was』の順で観たのだけど、『supersonic』ではリアムとノエルが仲良さそうに喋ったり笑ったり遊んだりしている映像がたくさん残っていたのに対して『as it was』ではその兄弟は絶縁してしまっているから、『supersonic』の時点で切なくてしょうがなかった。『supersonic』でノエルが「俺は猫でリアムは犬。俺は単独行動が好きだけど、あいつは誰かがいないとだめ。いつもおもちゃを持って、一緒に遊ぼうって言ってくるタイプ」と言ってて、そこまでリアムのことをわかっていて、それでもこの人はリアムから離れることを選んだんだなと思うと切ない。私は『oasis live at knebworth』を観たあとの日記で「もはやノエルが脱退してオアシスというバンドが終わった事実ですら愛しい」なんてことを書いたけれど全然愛しくない、切ないし悲しい。でも、『as it was』ではリアムが何度かノエルに電話とかしても全然なしのつぶてだってことも言われてて、そこまでするかねノエル……とも思うのだけど、考えてみれば私も自分の弟と絶縁してもうすぐ5年になるし、その弟と再会してなんか喋ってみろと言われると今でも全然無理な自信あるし、少なからずノエルと私は一緒なんだと思うと彼の気持ちも全然わからんでもないのだった。だからこそ、そのノエルがこのたび再結成に踏み切ったという事実が私には重く響いてくる。どれだけの葛藤があっただろうか。一度はもう絶対に許さんと思った相手をもう一度許すということの難しさや重さもそうだけど、もう10年会っていない相手ともう一度顔を合わせるという行為そのものが少なからず怖いものだろうと思うし、それを乗り越えたノエルは偉大だ。自分が姉なので、どうしてもノエルの方に肩入れしがち。でもリアムの方も、オアシスの解散や私生活のゴタゴタという挫折を乗り越えてソロ活動を始めて、再び英国のヒットチャートに返り咲くまでものすごく努力してて、その姿はとっても眩しかった。早朝にジョギングして、朝日を見て「素晴らしいだろ」と言う彼は20年前に酒とタバコとドラッグを謳歌してた彼と本当に同じ人か? と思ったりするけれど、少なくとも、彼が「生き続ける(live forever)」ことを選んだのだと知れて、よかった。歌ったからには生き続けてほしい。もちろんノエルにも生き続けてほしい。

『as it was』でリアムが「マンチェスターの寂れた街に生まれて何の目的もなかった俺たちがここまで成功したのは何かエイリアンとかの大きなものに選んでもらったんだ、感謝してる」とthe masterplanみたいなことを言ってたんだけど、だけど彼らは「望む」ことは一度もやめなかったから、あそこまで成功できたんだろうとも思った。成功であれ何であれ、何かを望むということはすごく体力がいる。望み続けることには強い意志の力が必要だし、継続した努力だって必要だ。この日記でも何度も書いているけれど、続けることこそが何より大変で、難しい。

私が今に至るまで何にもなれなかったのは、まさに、「望む」ことを続けられなかったからだなと今ならわかる。20代の頃はなんでも才能の有無のせいにしていたけれど、才能なんてものはそこまで重要じゃなくて、いや重要ではあるけれど、だけどそれよりも大事だったのは努力と継続だったんだ。もちろん努力と継続をしたところで誰もがひとかどの人間になれるかといえば違うのかも知れないけど、でもひとかどの人間になるためには努力と継続は絶対に必要だ。私はそれができなかった。「望む」という高カロリーなことにも疲れてしまって、いつしか何にも求めるものがない人間になってしまった。私は平穏を手に入れたけれど、20代の頃の、絶対に手に入れてやるんだ、諦めたくないんだ、悔しいんだ、という気持ちは随分と死んでしまった。人はそうやって年をとっていくのかもしれないけど、でもそれが自分にも当てはまるなんて思ってなかった。私は特別だと思っていた。そんな気持ちももう通り過ぎてしまった。残ったのはただ安らかな平穏だ。

それでいいのかなって、思わないことはない。本当に欲しいものがあるなら手に入れなきゃ。だけど今、自分が何を欲しいのかも、よくわかっていないのだった。

@kyri
週末日記