叔母のインスタで気づいたけれど今日は母方の祖父の命日だった。忘れていたとは薄情な孫だ。でも母も今日その話は一言もしなかったのでもしかしたら忘れているのかもしれない。いや、流石にそれはないか。祖父はわたしが24歳の時に死んだが、それから1年経った頃に祖父の死についてブログを書いていて、それを久しぶりに読み返したら泣きそうになってしまった。若いときのわたし、わたしに肉薄するのがうますぎる。逆に言えばこの10年でわたしは随分わたしから遠ざかってしまったような気がする。今は実家で不自由なく、静かに静かに暮らしていて、世界はまるで波ひとつ立たない真水のようだ。大阪に住んでいたときは毎日が大海の荒波だったように思い出せるけれど、それも、遠くなりゆく記憶だ。祖父が死んだときの日記と自分が左利きであることにまつわるエッセイは今読み返しても出色の出来なので、気が向いたらこのしずインに転載するかもしれない。
しずインと言えば、この日記(と一部創作)も投稿数が40を超えた。年明け早々に飽きてやめるだろうなと思っていたけれど、3月になってもなんとなく続けている。わたしはやっぱり日記を書くのが好きなのかもしれない。思えば家にインターネットというものがやってきてから、当時わたしは小学生だったけれど、その小学生の頃から個人サイトを作ってそこで二次創作もやっていたし日記も書いていた。そのうち二次創作の熱が冷めてからはひたすら日記を書いていた。それは高校生まで休みなく続いた。今思い返せば高校時代なんて進学校でひたすら勉強と、あとは演劇部の脚本の仕事でいっぱいいっぱいだったはずなのに合間の時間を縫ってブログに日記を綴っていたとはよくやっていたものである。大学生になってwebの活動みたいなものはtwitterが登場するまで遠ざかったけれど、社会人になって、今もこうして日記を書いている。私にとっては書くことの最小単位は日記で、日記がいちばん書くことへのハードルが低い。僕のマリさんが日記を書くのは筋トレのようなものとインタビューで語っていたけれど、確かにそうかもしれない。筋トレと言うにはちょっと間隔が開きすぎているけれど。だけどかつて友人にも「文章を書くことは才能があるかないかより訓練みたいなものでしょう」と言われたこともある。言われたそのときは何を知ったように! と憤ったものだけど実際その通りなんだった。書き続けていれば塵も積もれば山となる。書き続けることで文章が上手くなるかはちょっと分からないけど。先日の日記にも書いた通りわたしはPDCAを回せないDDDDの人間なので、この成果が出るかどうかは甚だ怪しい。
それにしても、もっとみんな日記を書けばいいのにな、と思う。わたしは自分の日記を書くのも好きだが人の日記やエッセイを読むことも同じくらい好きだと思う。昔はなんでエッセイなんてものをわざわざ読むのか理解できなかったけれど今なら進んで読みたいと思う。その人の感じたこと、考えたこと、その日あった出来事、それをその人の素の言葉で読むことができるのは僥倖だ。だけど書かれたものは書かれた瞬間にフィクションになる。だから本当の意味ではノンフィクションと呼ばれる書き物は存在しないのかもしれない。日記もそうで、わたしがこうして書く今日の出来事も今日考えたことも、言葉を選んでキーボードに打ち込んでいるはしから別の何かに変化していく。書くことで、わたしはわたしを演じているのだ。
今日は岸本佐知子『ひみつのしつもん』を読んだ。ピンとくるようなこないような、面白いようなやっぱり分からないような、でもブクログ見たらみんな絶賛してるな……そうなのか……と思いながら読み終えたけれど、読み終えてみると他の本も読もうかなという気分になっている。これが答えだ。blueskyで読了報告をしたらお友達から『死ぬまでに行きたい海』を勧められて、そういえばそれは読んだなと思い出す。けれどなにぶん大昔に読んだのでほとんどを覚えていない。せっかくなので読み返そう。他にも読みたいエッセイが次から次へと出てきてちょっと困っている。わたしは一人しかいないというのに、わたしが持てる時間以上の量の本を買ってしまいそうで怖い。今でさえ部屋中の至る所に積読が積み上がっているというのに。でも大崎清夏さんの新刊日記がめちゃくちゃ気になっているんですよねえ! 大崎清夏さんは詩集は読んだことないのだけどとにかく『目をあけてごらん、離陸するから』が素晴らしかったんだった。そういえばこれもtwitterのお友達から勧めてもらった本だった。原稿を忘れたわけではないがこれからしばらくエッセイ強化期間に入ろうと思う。前述した僕のマリさんもじつは読んだことがないのでこれを機に読んでみよう。