連休に突入。この連休で修正と組版を終わらせて、身軽になった状態で本を読んだり映画を観たりするつもり。地元のミニシアターで『ピアノ・レッスン』4Kリマスターが上映されるのでとても楽しみ。本もここのところ1冊読み終える間に10冊買ってるみたいなそんな感じなので、少しでも積読を減らしたい。
祖母がまた入院してしまった。転んで今度は背骨を折ったとのこと。駅なかの古本市で本を物色していたところに同じく仕事を終えて母が合流して、開口一番「ばあちゃんまた入院したんだって」と私に言った。私は口だけ「ええーっ」と声を上げたものの、全然驚いていなかった。またか、とも思わなかった。ただ、やっぱり、と思った。そしてそれから、病院にいてくれた方が安心だな、と思った。祖母はかわいそうだ、かわいそうだけれど、祖母をひとり家に残して仕事に出なくちゃならない私たちのことを考えても、祖母が家と病院どっちにいてくれた方がいいかと言われたら、私は正直、病院にいてくれた方が安心する。だって病院にいれば祖母は転んだりもしないし、台所に立つこともないし。以前私が休みを取って家にいたとき、祖母がおもむろに台所に立ち、鍋に火をかけて、そのままどこかへ行ってしまったことがあった。たまたま通りかかった私は煮立った鍋が放置されていることに驚いて、慌てて火を消した。そして思った、こんなんじゃ、いつ家が火事になってもおかしくないと。
だから、病院にいてくれた方が安心する。私はその古本市で3冊選び、レジへ持っていった。買ったのは松田青子『じゃじゃ馬にさせといて』、千葉雅也『デッドライン』、フリオ・ホセ・オルドバス『天使のいる廃墟』だった。
ここまで書いて、読み返して、私、人でなしだなあと思った。だけどここで嘘をついても仕方がないし。
この部分を読んで、現在と未来について考える人たち 来たるべきものについて絶えず考え、現在にあってそれを飽きずに探し求める人々は、すでに未来を生きていると思った。絶えず時間を注視し、来たるべきものに没頭し、人々の顔から何かを読み取ろうとする人々は、来たるべきと信じるそのことを、練習を通してもう生きているのだと。ある時間たちは近づき、混じり合い、膨張してそこにあり、未来とは必ずしも次に起きることではないですし、過去とは必ずしも過ぎ去った時間ではないんです。
パク・ソルメ『未来散歩練習』p.82
ハン・ガンの新刊に取り掛かる前に積んでいたパク・ソルメ『未来散歩練習』を読んでいる。ハン・ガンの文体が静かに音もなく降り積もっていく真っ白な砂、あるいは雪のようなものだとしたら、パク・ソルメの文体は絶えず浮遊していて、どこか地に足がついていなくて捉えどころがなく、ときに文章を追いかける私の目をふわりとすり抜けて勝手にどこかへ飛んでいき、それをもう一度捕まえるのに苦労したりする。けれどこの文体はゆっくり私を引き込んでいき、パク・ソルメにしか持たないテンポやリズムに私も一緒に散歩しているような気分になる。何か考え事をするとき、歩くか走るか車に乗るか、とにかく移動するのがいい。『ドライブ・マイ・カー』でも考えをまとめたいと言った家福にみさきは「どこか走りましょう」と車に乗り込むのだし。
今も私は、誰かが死んでもかまわないという話/ある人たちは国が掃き捨ててもかまわないという話/役に立ちそうにない人たちは流れから脱落して死んでもいいという話/そういう人たちは迷惑をかけずに早く死ぬべきだという話をよく聞く。もしかしたら、毎日私が聞いているのは 見ているのは さっさとそれを実行しろというサインなのかもしれず、私たちが公平に、公正に、両手にパンを一個ずつ持つためには、つまり誰もパンを三つ持ってはならないし、手のない者は手を差し出すことができないが、そのために新しい方法を作るのは無駄だし、新しい方法を作っている間にまずいことが起きるかもしれないので、手のない者がパンを持てないのは気の毒だけど当然だと、そうであるべきと世の中じゅうがそう叫んでいるみたいだった。
パク・ソルメ『未来散歩練習』p133.
『未来散歩練習』で取り上げられるアメリカ文化院放火事件は知らなかったけれど、この事件が起こるきっかけとなった光州事件は文学や映画で知った。ハン・ガン『少年が来る』も映画『タクシー運転手』もぼろぼろと涙を流しながら読んだり観たりした。光州事件だけじゃなく、韓国の近現代史は私は全て文学や映画から学んでいる。韓国映画はものすごくエモーショナルでときに感情過多だと思うこともあるけれど、自国の、きっと忌むべきであろう歴史に向き合い作品へと昇華させようとするその熱意、ひたむきさ、それでいて客観的な眼差しを羨ましく思うのを禁じ得ない。韓国には韓国で、大変なことは山ほどあるだろうけれど、その眼差しがあればいつかは大丈夫になるんじゃないかなあ、なんて思ったりする。韓国の作品に触れるようになったのは大阪に住んでいて、シネマート心斎橋が積極的に韓国映画をたくさんかけていたからだったのだけど、地元に帰ってきてからなかなか新しい韓国映画を観る機会がない。(パク・チャヌク『別れる決心』はなんとか観に行けた)せめて文学の方は、アンテナ高くしていたいなあと思う。
パク・ソルメはこの本で女性の登場人物に対しても「彼」という代名詞を用いている。韓国語という言語はそもそもあまり性差がなく、評論や報道記事などで女性のことを「彼」と書いても別に不自然ではないのだそう。他の韓国人作家では確かファン・ジョンウンもこの「彼」を用いていたような気がする。この、女性にも「彼」を用いる流れ、いいなあと思うものの、日本語で「彼」と書いてしまうとやっぱり、少なくとも私は「男性かな?」と思ってしまうので、もっと一見しただけでは女性なのか男性なのかわからない代名詞が日本語にもあってくれたらいいのになと思うのだった。そういう意味では、日本語の「〜さん」も英語の「they」もどちらも好きだ。この「they」に何かいい訳があればいいんだけど。