いつも椅子の上に三角座りをしてものを書くので肩も腰も首もバキバキになるのだけど、今夜はそれに加えてお腹が痛い。PCからもまた変な音がしているし、本当にそろそろ寿命なのかなあ。でももう5年近く使っているものだし、然もありなんという感じもする。せめて6月のイベント用の本の入稿までは頑張ってほしい。あと3ヶ月というところ。
前回の日記で弟のことを書いたら自分で自分にダメージを負わせてしまったみたいで、ちょっと落ち込んでいた。いやいや、ばかでは? 私はたまにこういうことをしてしまう。生活の切り売りとまではいかないけれど、(いや、この日記も見ようによっては切り売りになるのかもしれない)あえて自分の中にある昏いものを書き出して、その昏さに自分で驚いて、そして呑まれて、ひどいときにはひと月くらい沈んでしまう。そういえば大学生のとき、留学から帰ってきてすぐのひと月は創作意欲がものすごくて、1ヶ月で6万字くらい書いていたのだけどちょっと自分のことを掘り起こすのが止められなくなって、最終的にはやっぱり自分の深淵を覗いてしまって人格のクライシスみたいなものが起こり、何も食べられなくなり、自分の昏さに当てられてしまって、耐えられなくなったのだろうか、よくわからないけれどピアスを増やしたりしていた。何してるんだろう? あの頃から基本的に何も変わっていないな。
むくむく本を読んでいる。ブクログを見てみたら今月は9冊読んだらしい。意欲がすごい。そんな意欲があるなら原稿に充ててくれという話だ。原稿はやっぱり進んでいない。いや、今週どうにか書き出したのだけど、全然気に入らないので一回全部消そうかと思っている。こんな感じで間に合うのでしょうか。そろそろ不安になってきました。
1万円出して、自分が選んだ本屋さんに本を選んでもらうという企画で本を買った。コロナ禍の時も家から出られなかったから、いろんな本屋の選書サービスを購入したことを思い出した。まあ、それで買った本は読めた本もあれば読めなかった本もあったんですけど。
お願いするにあたっては質問が10個ほどある問診票に回答しなくてはならず、ちょっと書くのに考え込んでしまったところもあるのだけど、どうにか質問全てに答えて決済して、数日後に本屋さんから選書リストが届いて、それをこっちが承認して、実際に本が届いた。届いた本を眺めてみて、私の回答がこんな形になったのかと少し不思議なような、だけど私の回答を読んだ上で、私のことを考えて選んでくれたんだなあと思うと感動もした。私の回答のどの部分がどこに共鳴したんだろう? 本屋さんがどんな視点で本を選んでくれたのかはわからないけれど、だけど眺めれば眺めるほど、これは確かに私のための本たちなのかもしれないと思えてくるから不思議である。川野芽生『Blue』と木下龍也・鈴木晴香『荻窪メリーゴーランド』は本屋で見かけたことがあって、なんとなく心に残っていた本だったから、リストに入っているのを見たときは嬉しかった。これも何かの縁だろう。図書館でも本を借りており、こっちの方が返却期限つきなので差し迫って読まなくてはならないのだけど、送ってもらった本もゆっくり読んでいこうと思う。それにしてもまだまだ欲しい本が尽きなくて、もういい加減にしろと思うのにウェブストアを物色するのをやめられない。
生きることが恥ずかしい。よろこぶことが恥ずかしい。おいしいと思うことが恥ずかしい。きっとひとりきりで生きることができれば、こんなふうに感じることもなかったのだろう。心のなかに誰もいなければ、誰のことも思わなければ、恥ずかしいと感じることはなかったはずだ。でも、そうであれば、誰かと一緒に生きていたいと思うこともなかったのだった。ならばこの恥ずかしさには、耐えなければならない。引き受けなければならないものなのだ。人と生きる誰もが、生きる恥ずかしさを引き受け、そして誰かに引き渡す。本当はこんなことを文章にして人に読ませるのも恥ずかしい。けれども同じくらい、誰かのところに届いてほしいとも思う。今日もご飯はおいしかった。明日は友達と、中華料理の食べ放題に行く。
餅井アンナ『へんしん不要』p.32
明日は晴れるそうだ。原稿をしなければならないが、もし元気があったら図書館まで出かけようと思う。家にいると寝そうなので。原稿は図書館でやる。やる、やるぞ……。