20251220

kyri
·
公開:2025/12/20

前回の日記でちょっと調子が悪いと書いたけれど、やっぱり調子が良くなくて、SNSを見ているとマイナスな気持ちしか出てこなくなったので、年が明けるまでReads以外のSNSから離れることにした。特にアプリ消したりログアウトしてるわけじゃないので見ようと思えばいつでも見れるんだけど、今のところ見ずに済んでいる。人のpostを見ていちいち文句つけたくなってるときにSNSなんか見ない方がいい。年末の疲れが出てるんだなということにして、年内いっぱいは心静かに読書をして過ごそうと思う。小説も初稿が完成していてよかった。そうそう、小説も年が明けたら修正に入るのでprivatterに上げた初稿も一度非公開にするつもり。加筆修正が終わったら今度はpixivに上げます。ということで、年内まではprivatterでお楽しみいただけると嬉しいです。絵文字つけてくださった方もありがとうございます!


今日は朝いちで婦人科に行って3ヶ月分のピルをもらい、それから電車に乗って図書館に行く。午後から映画を2本見るので、午前中は読書をする。

ヒグチユウコカバーが欲しくて買ったソーンダーズ『短くて恐ろしいフィルの時代』、ソーンダーズは『十二月の十日』の面白さが全然わからなくて途中で読めなくなってそのまま売っちゃったのでこの『短くて恐ろしいフィルの時代』ももしかしたら途中でやめちゃうかもなと思ったのだけど、すらすら読める中編だった。ずっとオーウェル『動物農場』みたいな話だな……と思いながら読んでいたら巻末の訳者あとがきで岸本佐知子氏がやっぱり『動物農場』の名前を挙げていた。『動物農場』は80年前、そしてこの『短くて恐ろしいフィルの時代』は20年前に書かれた小説だけど、今読んでも、いや、今読むからこそこの上なく「今」だ、と思わされる小説だ。声がでかくて単純な言葉で正義を叫ぶやつにどうしてもなびいてしまう大衆がいて、最初はカフェの片隅でぎゃんぎゃん言ってる変なやつ、というだけの存在だったやつが時局の変化に乗れば一気にのし上がってしまう現実があって、権力はすべからく膨張して暴走していく。この世においては神様は世界をリセットして作り替えてはくれないけれど、たとえ神様が何度世界を作り替えてくれたところで、結局声がでかくて単純な言葉で正義を叫ぶやつを求めてしまうやつはどうしたって発生する。結局どうしたって堂々巡りだ、どうしたらいいんだろうと思ったりもするけど、でも、やっぱり簡単な言葉の中に正義は存在しないよなあと思う。難しい言葉にしか正義は存在しなくても、やっぱり自分が悪や戦争に巻き込まれないためにも、その難しい言葉を咀嚼し続けるだけの体力というか、根性というか、そういうものがやっぱり必要だなと思ったのでした。


フジコ・ヘミングは2018年に大阪で観たドキュメンタリー『フジコ・ヘミングの時間』がめちゃくちゃよくて、収録されていた「ラ・カンパネラ」の演奏に涙をだばだば流していた覚えがあるのだけど、同じ監督でまたフジコ・ヘミングのドキュメンタリーが観れて嬉しかった。でも、やっぱり『フジコ・ヘミングの時間』のインパクトが強くて、あの映画を超える感動はちょっとなかったかな〜とも思う。とはいえ、『フジコ・ヘミングの時間』よりも彼女の演奏する曲は多く入っていたように思うし、フジコの異母妹のエヴァの証言が聞けてよかったと思う。フジコがストックホルムでコンサートをやったときに、フジコの「ラ・カンパネラ」を聴いて「ラ・カンパネラをこんなふうに演奏してもいいんだって、誰も私に教えてくれなかった」と涙を流したピアニスト(彼女は徹底したロシア式ピアノ教育を受けていたそうだ)の話が印象的だった。フジコの「ラ・カンパネラ」についてはフジコ自身も「不恰好な鐘」みたいなことを前作で語っていたけど、でも、「そんな鐘がひとつあってもいいじゃない」と彼女が語ったように、いろんな鐘の音があっていい。私は結局、最後までフジコ・ヘミングの演奏を生で聴く機会には恵まれなかったけれど、こうして彼女の演奏が映画になって、素晴らしい音響で聴くことができて、よかったなって思う。『フジコ・ヘミングの時間』を大阪で観た当時はフジコはまだ生きていて、そしてこの『フジコ・ヘミング 永遠の音色』ではもう旅立ってしまっていることを思う。そう思うと、やっぱり一度はコンサートに行っておきたかった。


タイトルがすごくいい。これはガザのフォトジャーナリスト、ファトマさんの言葉。彼女と監督のビデオ通話が、ずっと続いてくれたらいいのにと思った。だけど、この映画がカンヌ映画祭に出品されることを伝えたそのすぐあとに、ファトマさんは空爆で亡くなってしまった。だから、スマホの向こうでいつも笑顔だったファトマさんはもうこの世にいない。この世にいない人の笑顔が、彼女の撮った数々の写真や映像が、彼女が歌った歌が、こうして映画になって、海を渡って、何にも、今日一日の命を脅かされることもない私のもとに届く。ガザのことを忘れないようにしようとこの映画に足を運ぶ私も、結局は安全な場所で、いざとなればいつでも席を立てる自由を持って、誰にも強制されず、ただぬくぬくと生きているにすぎない。『ノー・アザー・ランド』を観たときも思ったけど、結局は安全な場所で映画を観て、映画が終わればまた自分の日常に戻ってちゃんとお風呂に入って美味しいものを食べられる私の日常はものすごくグロテスクだ。世界が不均衡すぎる。一日も早くパレスチナが占領から解放されるよう願ってやまない。結局『ネタニヤフ調書』の方を観にいけなかったので、こっちは観れて心から良かった。ファトマさんの冥福を祈るし、誰にも記録されずに亡くなった大勢の人の冥福も祈る。


映画から帰って、母と二人で家の近所のラーメン屋に行った。カロリーの塊。味玉はしょっぱい。ごちそうさまでした。

@kyri
週末日記