今日は休みを取っていた。というのは、今日と明日で家族がまた某YAZAWAさんのライブに東京に向かうので、私もなんだか仕事するのが馬鹿らしくなり、せっかく家に一人でいられる時間があるなら休んでしまおう! ということで、休むことにしたのだった。するとちょうど今日に限ってものすごく寒い日で、家から出ずに済んだのはラッキーだった。ちなみに家族は来週もYAZAWAさんのライブに行くらしい。元気で何よりである。
ということで、朝から小説の続きに取り掛かる。平日はやっぱりどうしても夜は疲れていてろくに書けないので、平日は日記を書くにとどめて小説は結局休日に集中して取り掛かることになる。平日の間に何をどうやって書こうかなんとなく頭を捻り、もしかすると第二部は1chapterだけで完結するかもしれないなということに気づく。それって第二部というよりもはやただのエピローグなんでは。そして実際に書き始めてみて、やっぱりそうかもしれないという予感が確信に変わっていく。書いては疲れて電気カーペットの上でごろごろして、スマホをいじり、昼になったら無印のグリーンカレーを食べ、また電気カーペットの上でごろごろして、先月iggyさんからいただいたコーヒーを淹れ、また書いた。全然うまく書けないな、全然進まないし、これはこの土日での更新はいよいよ無理かもしれない……と、日中は思っていたけれど、なんとなく書き進めるうちに気づいたら7000字近くになっていた。さすがに疲れたので今日は小説はもうやめて、こうして日記を書いている。この調子で行けば明日に終わるかもしれない。そしてこのchapterで完結だとするなら、9月から書き始めた私の旅も終わるということ。早かったようで、長かったようで、でも、やっぱりあっという間に3ヶ月が過ぎたなあと思う。9月はまだ暑かったし、10月は今となっては全然覚えていなくて、11月はスパークとデザフェスに行ってお友達とごはんを食べて、そして12月は仕事が変わって、一気に寒くなった。3ヶ月もあれば色々ある。こんなことを書いておいて明日仕上がらなかったら笑ってしまうけど、遅れたとしてもおそらく年内には書き上がるだろうと思う。

小川洋子は大昔に『博士の愛した数式』を読んだきりでその『博士の愛した数式』のこともろくに覚えていないのだけど、『遠慮深いうたた寝』はかわいい装丁だなと思っていたところに河出文庫のベストオブベストに入っていたこともあり、栞欲しさに買ったのだった。まだ読み始めたばかりだけど、小説にしてもエッセイにしても、独創性がものを言うことも確かにあるのだろうけれど、でもやっぱり、日々を、人間を、どれだけ深く眼差して、どれだけうまく切り取れるかなのだろうなと思う。ちょうど昨日の古本市で『ことり』のサイン本を見つけて、買うかどうかちょっと迷ったこともあって(結局サイン本は魅力的だけど買うとしても文庫本だなと思ってやめた)たまたま買っておいたこの『遠慮深いうたた寝』に目が向いたのだった。『ことり』も遠からず買うと思うし、これを機に小川洋子を開拓するのもいいかもしれない。
それほど大事な名前なのに、私は自分の小説の登場人物たちにほとんど名前をつけたことがない。アルファベットやニックネームで通したり、小父さん、令嬢、技術士、などという呼び方で誤魔化したりしている。
なぜだろう。たぶん私も彼らの名前を知らないからだ。私は彼らの物語を書いているだけだ。人生で唯一、自分自身の証拠となる名前を授けられるのは、その人を一番大事に愛している誰かであって、作家ではないのではないだろうか。と、余計な心配をしているうち、いつしか名前を考える間もなく、勝手に物語が動きはじめている。
小川洋子『遠慮深いうたた寝』河出文庫 p.25.
この箇所を読んで、かつて自分の小説で、「名前をつけるということは、その子の未来を願うということだ」という文章を書いたことを思い出した。その人の証拠となる名前を授けられるのはその人を一番大事に愛している誰かだとするなら、あのとき自分の小説の登場人物にきちんと名前を授けた私は彼らのことを誰より一番愛していたのだろう。たかが小説の登場人物だけれど、彼らの未来を願って名づけたのだろう。私はきっと、子供を産むことなく死ぬけれど、だけどそれは実体としての子供を持たないというだけであって、架空の子供たちはたくさん生み出してきた。私の人生はそれで十分なような気もする。