『関心領域』を観にいってきたので感想を書きます。ネタバレ含む。
ひとときも心が休まる隙がない。
というのも、常にうるさいからだ。家族は仲睦まじく平和に暮らしているけれど、塀の向こう側——そこはアウシュヴィッツ絶滅収容所——から聞こえてくる音は朝も夜も、ひとときも鳴り止むことはない。それはひっきりなしに到着する列車の音、看守の怒鳴り声、犬の鳴き声、叫び声かもしれない声、そして焼却炉のボイラーが立てる轟音、さまざまな音がこの家族を取り囲んでいる。けれど家族はそんな音は聞こえないのか、聞こえていたとしても無視しているのか、あるいはもう慣れてしまったのか、顔を上げることも周囲を見回すこともしない。彼らは彼らの生活を守ることに注力する。庭の手入れに心を配る。父親の誕生日にはプレゼントを贈る。この轟音の中で。唯一この轟音に敏感なのは赤ちゃんである末娘と、訪ねてきた妻の母だ。末娘は常に泣き続けることによって、そして母は立ち去ることによって、この轟音から逃げようとする。映画は塀の向こう側からのノイズと、この世の終わりを思わせる末娘の泣き声に埋め尽くされている。音は常に私を苛んで、ひとときも、心は休まらない。
学生時代、卒論の取材でオーストリア人の舞台演出家と話をしたとき、彼からこんな言葉を教わった。「目で聴く、耳で見る」。この映画はまさにそうだ。目で、列車が走ってくる時の煙を、焼却炉から立ち上る煙を、その音を聴く。耳で、そこで起きているであろうあらゆる暴力の形を想像し、その光景を見る。この映画がアカデミー音響賞を受賞したのも納得だ。そもそもはじまりからして怖いのだ。ミカ・レヴィによる音楽とともにタイトルが映し出され、そのタイトルの文字はだんだんと暗闇に消えていくけれど、その、真っ暗になったスクリーンと共に音楽は鳴り続け、3分くらいはその真っ黒な画面と鳴りっぱなしの音楽で、そして映画はようやく始まる。
収容所での暴力が映像となることはない。それは常に音なのだ。そして家族たちは徹底的にこの音に、暴力に無関心であり、けれど、その暴力を続けることには積極的なのだ。彼らの生活は囚人たちの世話によって、囚人たちの持ち物を略奪することによって成り立っているのだから。家族たちはそれを疑わない。
こうしたヘス家の日常を目にして、ハンナ・アーレントの「悪の凡庸さ」を想起する人もいるかもしれない。だがこの映画は少なくとも、ルドルフのごとき人物を「命令に従っただけの凡庸な人間」と見るような俗流の理解が的外れであることを示している。一家の生活は壁の向こう側から押し寄せる恐怖を抑圧することで成り立っており、ユダヤ人から奪った物資や囚人たちの労働力によって支えられてもいる。暴力と恐怖は日常の隅々にまで浸透しており、加害者たちの共感の欠如と抹殺の意思は明白である。彼らの一見平穏な家族生活は、「劣等人種」の搾取や虐殺と表裏一体なのである。
田野大輔「大量殺戮者の平穏な生活」(パンフレットより)
終盤でいきなり現代のアウシュヴィッツ収容所のドキュメント映像が差し挟まれるのだけど、その映像では職員の人たちが(おそらくそこは朝だろう)資料館やガス室と思われる部屋の掃除にあたっている。職員たちの掃除の仕方は丁寧で、彼らはおしゃべりすることもなく黙々と箒を動かし、ガラスを拭く。けれど私が恐怖を覚えたのはこの光景だった。ガス室と思われる部屋は、どれだけ時間が経ったとしてもそこは常軌を逸した部屋だ。けれどそんな部屋も、どれだけ常軌を逸していても、日々のルーティン化から逃れることはできない。どんな部屋だろうと、人はそのうち、慣れてしまうんである。そしてこれはパンフレットでも逢坂冬馬氏も指摘している通りだ。
負の歴史を継承し、学習の場と化したかつての虐殺の現場は、しかし、ルーティンワークとしての清掃の現場であり、痕跡と化した被収容者たちは、虐殺収容所であった頃と意味は全く異なるが、日々の営みの中で客体化されている。
こうして、人語に絶する虐殺行為は、その虐殺を模造する情け容赦のない(しかし虚構の)映像ではなく、それらの映像の欠乏が増幅させる「確かにそこにありながら、不可視化された虐殺」への関心によって強く観客の心に訴求する。
逢坂冬馬「「関心領域」はどこにあるのか?」(パンフレットより)
ジョナサン・グレイザー監督はアカデミー賞の場でイスラエルによるガザ虐殺に抗議するスピーチを行ったことは記憶にも新しいけれど、この映画は私に指を差す。私もまた暴力を抑圧していないかと。私にも、暴力への積極的無関心がありはしないかと。ヘス家族と私とでは、一体何が違うのだと。
私は留学していたときに、アウシュヴィッツではないけれど、ダッハウ、ザクセンハウゼン、マウトハウゼン強制収容所は訪れたことがある。そこで——あれはダッハウだった——ガス室の中にも入ったことがある。ダッハウのガス室はぽつんと外れたところにあって、私はそこをガス室だと知らないままに中に入り、しかも、そこは待合部屋、脱衣所、そしてガス室という順路で見学したらいいところをいきなりガス室の方から入ってしまうばかをやらかした。のだけれど、そこがガス室だと知らないままに入っても直感でここは何かがおかしいと感じた。直感で、ここは常軌を逸していると思った。後からそこがガス室だとわかったとき、背筋が凍るよりも先に深い納得があった。だから例え仕事であろうとそこを毎日清掃しろと言われたら私だったらすごく抵抗がある。おそらくあの映像に映っていた職員の人も最初は抵抗があったかもしれない。でも、やっぱり、慣れてしまうのだ。そして、慣れないと生きていけないんだ、私たちは。
なんでもそうだ。慣れてしまうんだ。塀の向こうから聞こえてくるあらゆるノイズにも、ニュース映像で目にする惨状の光景にも、そして、そんなことなどまるで世界に起こっていないかのように、当たり前のように回っていく日々の生活にも。怖い映画だった。怖かったけれどめちゃくちゃ見てよかった。今年のベストかもしれない。原作小説も買ったので早速読もう。
そして映画館をあとにして書店と古本市に乗り込む。

買いすぎだ!!!