なんか、結局ずっと寒いなと思っている。先日すごく暖かい日が少し続いたけれど、結局寒い。これを書いている部屋もまた寒い。でも寒い日は好きだ。冷たい空気を頬にぶつけながら、コートを着込んで映画館まで歩く道のりがとても好きだ。もうすぐ3月で、じきに春が近づいてくるけれど、できればもう少し冬でいてくれないかなと願ってしまう。年度末が近づくにつれて私は毎年気分が落ち込んでしまうので、その直前にあるこの2月の中に永遠にいたい。もう雪は降らなくていいけど。
昨日は早起きして『ミツバチと私』と『ファースト・カウ』を見に行ってきた。
『ミツバチと私』本当に素晴らしかった。彼女が自分の名前に気づき、自分のものにしていくまでの物語。お兄ちゃんが彼女の名前を呼んだときにブワッと涙が滲んで、エンドロールで彼女の名前を見たときにドバッと涙が溢れた。最近は映画を観てブワッと泣くことも減ってきているけれど、これは久しぶりに泣いた。何にも侵されることのない自分を求めて懸命に生きる彼女の姿は強烈に光っていた。エンドロールの、車の窓を開けて外を眺める彼女の表情にあらゆる感情がこもっていような気がした。早起きしてよかった。心から観てよかった。今年に入ってから観た映画はどれも観てよかったと思えるもので嬉しい。いつも思うけど、映画という作品に自分のそのときの、そのときにしかない姿を残すということ、自分がこれからどんなに成長し、老いていったとしても作品の中にいる自分は永遠にそこにいること、永遠にその作品の中で笑っていること、そのことに、私は何度でも、果てしなく圧倒されてしまう。作品が自分の体から切り離されて、どこへでも飛んでいくこと。
高校時代に演劇部で脚本を書いていて、その脚本をずっとwebで公開していて、全国の演劇部さんたちに数えきれないくらい自分の脚本を使ってもらった経験から考えるに、作品が自分の体から切り離されて、自分の想像以上にどこへでも飛んでいくこの実感は、何にもかけがえがない。私の作品は私から生み出されると同時に意志を持って飛んでいく。場所も時間も飛び越えて、作品は身一つで、どこまでも高くへ飛んでいく。私という人間が「今・ここ」にしかいられないのとは違って、作品はそんなものからは限りなく自由だ。自由に羽ばたき、私以外の人の心へ届いていく。届いた先で永遠になる。作品が羽ばたき続ける限り、「書いていたときのわたし」もまた消えることはない。私はもう制服を脱ぎ捨てて10代からも離れ、遠ざかっていくけれど、一方で制服姿の私はいつまでも消えることがない。今は思うところあって、もうこの脚本たちは時代にそぐわないなと思って公開をやめてしまったけれど、この深い実感が今でも私をここに立たせているような気がするのだ。
一方で、才能についてもよく考える。昔、私には確かに才能というものがあったように自分で感じていたけれど、最近はそうでもない。むしろ、本当は才能はなかったんだろうなと思うことが増えてきた。仮に才能があったとしても、私はそれを丁寧に育てることを怠りすぎた。育てるということをしなかった。いつも好きなように書き散らすばかりで、磨くことがどういうことなのか、いまだにわかっていない。この日記についてもそう。私はPDCAを回すことがものすごく苦手で、いつもDDDDになってしまう。Doしかない。だから私に多分成長はない。なんだか書いてるうちに悲しくなってきた。でも、これは雨宮まみさんの言葉なのだけど「才能なんてものに構っている暇はない」というのも事実なんだと思っている。20代の頃は「才能」という言葉を信じて走ってこれたけど、30代になった今でもその言葉だけで走れるかと言えば多分無理。だけど、それこそ、もう「才能なんてものに構っている暇はない」し、才能がもしかしたらなくなってしまったかもしれない今でも、物語のイデアは見える。結局はそれが全てなのかもしれない。声を聞き続けること。才能がなくても物語はそこにある。そこにある限り、そして、私が書こうと思える限り、物語は生み出されるのだ、きっと。そして、生み出された物語は私の体から切り離されて、またどこにでも飛んでいくのだ。
あいみょんのマリーゴールドから始まって、天野月子の翡翠で着地したような感じがする。ずっと翡翠を歌っている。まだ気が抜けているというか、書き出すにはもう少し時間がかかりそうだけど、焦らず(しかし自分で決めた締め切りは守り)もうしばらくイメージをこねくり回そうかな〜と思っている。でも結局作業できる時間が土日にしかないことを考えればもう明日にでも書き始めたいところ。今日じゃないんですか? 今日は眠いので、明日……