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20250506

kyri
·
公開:2025/5/6

 あたしはふと、中学とか高校のころを思い出した。

 独身の先生と見れば、クラスのみんなはめっちゃバカにしてイジり倒してた。その先生が二十代だろうと四十代だろうと、男だろうと女だろうと。結婚してないなんておかしい、独身なんて怪しいと、集団でイジって、無邪気に笑ってた。自分がなにをしてるのかわからないままそんな行動をとっていた。独身の先生は笑っていいっていうコンセンサスだけはなぜか一致していて、先生への嘲笑を止める者はいなかった。みんな腹の底から笑ってたけど、あれは酷いことだったんだ。立派な差別だったんだ。そしてあのときの差別意識のおおもとがなんだったのか、いま、解き明かされたと思った。

 ——母親だったんだ。

 あたしたちの母親が、独身のこと笑ってたんだ。

山内マリコ『一心同体だった』集英社文庫 p.184.

山内マリコの読書は昔よりも今の方がずっとつらいような気がする。『ここは退屈迎えに来て』を読んだときの私は当たり前だけどまだ20代で、大阪に住んでいて、こういう地方に住んでる女の子の鬱屈とか、その気持ちはわからなくもないけど私はもう地元を抜け出した身だしと思って、面白く読んだしマリコ氏のことが大好きになったしそれからマリコ氏の著作を追いかけるようになったけれどもどこか他人事みたいな感じだった。私はもう地元を出た身だし、何より、まだ若いし、と思って。それが30代になって、マリコ氏的にも地方の女の子の鬱屈を描いた小説からどんどん物語の幅は広がっていって、今、どれを読んでもすごくつらいなって思う。『一心同体だった』もそうだった。10歳から40歳までの女の子、そして女性たちの、主人公のバトンは輪舞のように渡されながら繋がっていく30年の物語は、どのチャプターもその時々にいたかけがえのない女性たちとの繋がりの物語だったけど、だけどそのチャプターが終わっても続いている関係というのはひとつもなかった。みんな、その時々の、一時期だけを仲良くなったり、ちょっと心の距離が近くなったり、するけれど、みんないずれは離れていった。卒業とか入学とか、ルームシェアの解消とか、就活とか、就職とか、異動とか、そして結婚とかで。読んでいて、永遠に、それこそ死ぬまで続く友情なんてものはないのかもしれない、そんなものは幻想の中にしかないのかもなと思うとすごくつらかった。私自身の経験からしても、終わっていった人間関係の方が多いのにも関わらず。私はこの歳になってまだ友情みたいなものに夢見てるんだって気づいた。私という生身の人間の現実ではいろんな友達関係は生まれては消えていったけど、せめて、物語の中では死ぬまで続くような友情を見たかったのかもしれない。でも『一心同体だった』の中にそんなものはなかった。あったのは、ただひたすら、「わかるよ、それ」という共鳴だった。あのときもっと大事にしておけば今でも友達だったかもしれない、あのとき勇気を出して話しかけていれば友達になれていたかもしれない。そして、もしも卒業しなければ、就職しなければ、結婚しなければ、子供を産まなければ、という、無限に湧き出てくるifが、ぐさぐさと、私を突き刺してくる。

でも、他人とはその時々でしか仲良くなれず、いずれ誰とも疎遠になっていく、ということは、逆に言えば、その時々で、仲良くなりたいと思う人は必ず見つかる、ということでもあるのかもしれない。この間、二次創作が縁で知り合った人たちとの関係はできればこれからも続けて行きたいってことを日記で書いたけど、それは本当にそうで、これもまた、私のその時々で見つけた人間関係の一つに他ならない。私はいつでも私の人生の過渡期にいて、死ぬまでずっと過渡期な以上、死ぬまで続く友情なんてものもない。だけど、その時々で、いずれ疎遠になる日が来るまで、その人間関係を大事にすることはできるはずだ。友達になりたい人にはそう言おう。自分の足で会いに行こう。そして関係を続けよう。

 女友だちは近づいたり、離れたりする。必要なときに必要なところにいてくれた同性、それが女友だちだ。「一生の友」とか「親友」とかレッテルを貼らなくてもいい。そして若い頃の「ニコイチ」のような関係から卒業して、適切な距離を置けるようになる。

「選ばれる側から選ぶ側」に廻ろう。

「友だちになって」と口にしよう。

 そう言ったからといって失うものは何もない。

上野千鶴子 解説(山内マリコ『一心同体だった』)pp.395-396.

それにしても、女性30年の物語を読むとどうしても、私はどこでこうなったんだろうという思いが顔をもたげてくる。物語に出てくる女性たちの人生に一つとして同じものはなかったけれど、だけどみんなそれぞれ、自分に悩み、他人に悩み、そして折り合いをつけ、次へ進んでいく。それが転職であれ結婚であれ出産であれ。別に結婚や出産が人生の全てというわけじゃない。だけど、「結婚もせずに仕事を続けている私は半端者」という描写があって、本当にそう、と思ってしまった。私は結婚も出産もしていない。そしてきっと、これからもしない。だけどそれでいいの? と、こういう物語を読むとどうしても、そんなことを言われているようで、居心地が悪くなる。山内マリコの読書はどんどんつらくなっていく。それは、もう私は20代ではないのに、私のライフステージは変わらないからだ。足踏みをしているような気がする。もうどこにも行けないんじゃないかって気がしてくる。今は独語の勉強を頑張っているけれど、これだって仕事のためにやってるわけじゃなく完全な趣味だし、結局は道楽じゃんって言われたらそれまでだ。思うに、せめて何か勉強をしていないと、私は私の意味を保てない。小説を書いて私を証明するという手段もあるけれど、そんな情熱だって20代で消えてしまったように思う。私はもう私の意味を保てないところまで来ている。せめて何か勉強をしていないと、私は多分、ここにいていいよとは言われない。同級生たちが結婚し、出産し、そして育児をしている中で、ただひたすら、私は私のために時間とお金を使う。それがどうしたって思える日ももちろんある、だけど、少なくとも今夜はそう思えない。そしてまた、あと一ヶ月もせずに今年も誕生日が来る。

疎遠になっていった数えきれない友達のことを考えた。そして、今も関係が続いている数少ない友達のことも考えた。その時々で出会える人を大事にしようって思った。だけど、私のライフステージは変わらないのに、これから先、その時々で、仲良くなりたい、そして、仲良くしてもらえるような人に、私は出会っていけるだろうか。

@kyri
週末日記