ここ数日、いちご大福を食べている。地元には和菓子屋が何軒かあって、食べ比べをしてみた。カスタードクリームを入れている和菓子屋もあって、なかなか攻めているな〜と思ったけれど、結局は餡子といちごだけで勝負したいちご大福がいちばん美味しいという結論になった。
しんどいことはしんどいけど、動けない程でもないし、それなら動いたほうがいいだろうということで、昨日雨宮さんの本を読んでちょっと奮起したのもあるし、早起きしてカウリスマキ『枯れ葉』を観た。これはもっと映画が好きで、もっと映画を観ていればもっと楽しかっただろうなという感想。私は教養がなく、映画においてもこれは押さえておくべきという映画は大体観ていない。ゴダールもブレッソンも小津も観たことがない。そのくらいのステータスで挑むのはちょっと分が悪かった。知ってたらもっと楽しんだだろうな。とはいえぎりぎり『デッド・ドント・ダイ』は観ていたので、いきなりアダム・ドライバーが出てきてびっくり(にっこり)した。でもあんなに長く引用しても大丈夫なものなんですね。そしてあの映画を「ブレッソンだね」「ゴダールだね」と評価して映画館を出ていく近所の人たちの会話にへえ〜と思った。こういう映画を観ると、うわ〜もっと映画観なくちゃな〜と思う。一昨年ゴダールが死んだときに追悼上映があったのだけど、具合が悪くて観に行けなかったのを今でも悔やんでいる。もう一回やってください。できれば小津も上映してください。なぜなら私は基本的に映画は映画館でしか観ないから。せっかくアマプラがあるんだからもっと家でも映画を観ればいいのだろうけど、家にいると他のものに意識が行ってしまってなかなか集中できないんである。あと寝る。全然だめである。とはいえ『枯れ葉』、もう決して若いとはいえない年代の二人が主人公であったことにとても勇気づけられた。幾つになってもロマンスは始まるものである。あと犬のチャップリンが可愛かった。
映画館を出て本屋に行き、宮地尚子『傷を愛せるか』と滝口悠生・植本一子『さびしさについて』を買った。前者は以前からずっと気になっていたけど、なんとなく今ではないような気がしてずっと買わないでおいたものが今日やっとその時が来たという感じで、後者はたまたま見つけて、だった。買ったばかりの本を抱えて図書館に行き、2冊とも読み終えてしまった。
お互いが感情をあらわにし、本音を吐き出す瞬間。けれども、思いを吐き出し、取り乱すことが可能なほど、じつはお互いを信頼し、愛し合っているということも見えてくる。「生きていてほしい」と家族に思われているからこそ、「死にたい」と心からいえる。「生きていてほしい」と心底思っているからこそ、「死にたい」と願うことの権力性を正面から指摘できる。
「死にたい」と願うことの権力性、という言葉にどきっとした。私は以前はしょっちゅう「死にたい」と思うタイプの人間だった。だけどそれも家族が私のことを愛しているからで、だからこそ私は遠慮なく「死にたい」と思っていたということだ。甘えているということなんだろうか。それもあるかもしれない。私は自分の「死にたい」は自分だけのものだと思っていたけれど、周りから本当に死ねと思われている、あるいは、どうでもいいと思われているならどうだっただろう。もちろん、死ねと思われている、どうでもいいと思われているからこそ「死にたい」そして死を選ぶこともあるだろう。だけど私は、もしも家族が私のことをどうでもいいと思っていたとしたなら、死にたいという選択肢はなかったかもしれないと、この文章を読んで思った。確かにそうなんである。愛情を試すとかそういうことではないんだけれど、愛されているという自覚は確かに私の「死にたい」という気持ちの土台にあったように思えた。愛されているからこそその重みに耐えきれなくて死にたいというのでもまたちょっと違う。「遠慮なく」死にたいと思える、という感じ。うまく言語化ができない。だけど今は死のうと思ってそう簡単には死ねないことがやっと実感としてわかったのであまり死にたいとは思わなくなった。ちょっと進歩。
『さびしさについて』もとても良かった。一子さんについては『かなわない』でその筆力に圧倒され、この人の書いた文章をもっと読みたいと思っていたし、実際こうしてまた読むことができて、やっぱり、う〜ん好きだ、一子さん、という思いを新たにした。だけど私には一子さんが抱えるさびしさというもの、一人がいやだという気持ちはあまりないし、理解はできてもそれがどんな感覚なのか、多分本当にわかる日は来ない気がする。とここで、滝口氏の「さびしさ」についての言及に、私もこれだ! と思う箇所があった。
家族や友人や環境に恵まれていたから、そんなさびしさは理解できないんだよ、と言われたりもして、違う環境で生きてきたのだからそう言われるとそれ以上否定も反論もできないし、実際その通りなのかもしれないけれど、やっぱりそれもちょっと違う気がしているというか、受け入れたくない気持ちがあって、それはそういうふうに差異や隔たりを環境要因みたいな話に収束させてしまうことの絶望に精一杯抗いたい気持ちがむかしからあって、その絶望への抵抗は芸術とか表現にかかわるひとが真摯に取り組むべきことだと思っているからです。この引っかかりがまたさびしさについての想像と理解を遠ざけてしまうかもしれないのですが。
これ。これである。私も以前友人に似たようなことを言われたことがあるのだ。「仲間や家族に恵まれたあなたには本当の孤独はわからないのかもしれないね」と。これを言われた時、私も滝口氏と同じように「まあそう言われればそうなのかもしれないけど」と思って反論はしなかったのだけど、後になってかなりモヤモヤしたのだった。でもこのモヤモヤがどこからくるものなのかずっとわからなくて、どうせ私には孤独のことなんてわかんないですよ、けっ、と思うにとどまっていたところだった。それを滝口氏がちゃんと言語化してくれたような気がした。孤独がわかるからかっこいい、とか、表現に深みができる、とか、そんなニュアンスはきっとないのだろうけど、でも「あなたには孤独はわからないよ」と言われることは私にはそんなことを言われているようにも聞こえた。でも、孤独の形がわからなくても表現や作品でそれに接近することはできるはずなんだ。というか、だからこそ取り組んでみる価値はあると思うんだ。でもこれ、滝口氏が言わんとしてることとちょっと違っているような気もしている。やっぱり私は自分の読みたいようにしかものを読めない。この解釈で合ってるかな? 自信ない。
それにしても、滝口氏のこんな言葉にちょっとハッとしてしまった。
小説は、事前に書きたいと思っていたものを書けるものではなく、事前に書こうとしていなかったものが書けるもの、というのがこれまで小説を書いてきたなかで手元にある唯一の経験則らしきものであり、小説観みたいなものです。しかしこの経験則は小説を書くうえでほとんどなんの助けにもならないんですよね。しいて言えば、書きたいことをすらすら書けてしまっているときは小説としてうまくいっていない可能性があるぞ、と注意ぶかくなることぐらいでしょうか。
うーん、そうかもしれない。私は事前に書きたかったものがちゃんと予定通り書けたら結構安心するタイプだけど、それだと予定調和すぎて安心はするけどあんまり面白くないかもしれない。それこそ、先日の日記でも書いたけれど予期せぬところでやってくるユリイカの方が絶対大事だと思う。だけど小説としてうまく行っていない可能性があるぞ、とまでは考えたことなかった。これからちょっと意識してみようかな。でも滝口氏が言うようにそれは結局助けにはならないかもしれないけれど。
あー、この日記を書くのに時間がかかりすぎた。22時までに書きたかったけど20分もオーバーしてしまった。やっぱり映画を1本と本を2冊読んだ日は書きたいことが多くなる。明日からまた平日だ。でもこの土日は結構活動できた方だと思う。去年の今頃と比べたらだいぶましだ。具合悪いなと思っていたのはもしかしたら気のせいだったのかもしれない。そうだといいな!