COLOR'S END(Autumn)

kyri
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(昨日の日記に書いた「夏と秋のBL」を転載します)

 夏は青色ばかりを使う。太陽の出力を最大まで上げて、来る日も来る日も青色の絵の具を両手いっぱいに抱えて高い脚立に上っていく。なんでそんなに太陽のボリューム上げるの暑いんだけど、と以前脚立のてっぺんに向かって呼びかけたら、光に当てた方が色が透明になるんだとわけのわからない返事が上から降ってきた。僕は、透明になっていくらしい青色にどうとか思うよりも先に、ただ立っているだけで眩しくて目を細めてばかりいる。じりじりと地面は焼け、上からは暑く、下からは熱い。毎日毎日そんなだから、僕はよく熱中症を起こして日陰で寝込んでしまう。そうしたら夏は、下から僕の声が聞こえなくなったことに気付いて水栓を大ざっぱに回し、余っていた白と灰色を適当に混ぜて雑に塗りたくってから脚立を下りてくる。

「秋、大丈夫か?」

 僕に呼びかける夏の背後で、栓が開いた空からひどい量の水が降ってくる。だけど彼の馬鹿なところは太陽の出力を下げるのを忘れることで、ただでさえこんなに暑いところに大量の水を浴びせられても湿度ばかりが上がるばかりで、余計に気分が悪くなってしまう。それに、彼はもう少し水栓の回し方に気を配った方がいい。

「水、そんな回し方しちゃだめだってば」

 僕は何度もそう言うけれど、夏は「俺、そういう細かいことわかんないからさあ」と繰り返すばかりで、だからきっと、明日も明後日も大ざっぱな水が降る。僕はほぼ毎日夕方には寝込んでしまうから、きっと夕方になれば、彼は水と一緒に戻ってきてくれる。

「秋、見て。絵の具が余ったからさ作ってみた」

 縁側にぐったり寝転んでいる僕の隣に腰を下ろし、せっせと手を動かしていた夏が目を輝かせて差し出してきたのは水色の、少しおかしな形をした瓶だった。ガラスの裏側、瓶の内側に小さな水泡がいくつも息を潜めている。僕が手を伸ばそうとする前に、夏はその瓶を僕の額に載せた。突き抜けるような冷たさが額から首の後ろへ一気に響く。瓶から流れ落ちた水滴が額に残り、そこで気化してほんのひと時だけの清涼感。

「何それ」

 僕は起き上がり、夏に尋ねる。彼は得意げに瓶の頭を指さす。

「ここにビー玉をさ、嵌めてみた」

「なんで」

「蓋がなくて。こいつその辺に転がってたからぼーっと見てたんだけどそれでひらめいた。ここに嵌めて、蓋の代わりにするじゃん。んで、どうやってこれを飲むかというと、ここの、瓶の真ん中の窪みに注目してな。ここ見ててな。いい? 秋」

「見てるよ」

「そこで登場するのが、この、一見何に使うのかわからない変な形のプラスチック。この丸いところをこのビー玉に沿って当てて、上から、どりゃっ」

 夏はどこからか取り出してきた「変な形のプラスチック」を瓶の頭に当て、さらにその上から掌を乗せ、力を込めて一気に、垂直に落とした。その遠慮ない力の入れ方に僕は瓶が割れるのを恐れて怯む。すると夏の手の中でがこっ、と変な音がして、すぐに彼の指の隙間から透明にぱちぱち弾ける水が溢れ出てきた。何が起こったのかわからずに瞬きを繰り返す僕に、はは、と笑って夏はまた瓶を差し出す。さっきまで蓋代わりに嵌まっていたビー玉は、夏が作った不思議な真ん中の窪みに落ち、そこでゆらゆら揺れていた。瓶の底から上がってくる水泡に包まれてくすぐったそうにしているビー玉、水泡は瓶から顔を出した途端にいなくなってしまう、待ち望んだ世界に出られて、嬉しそうに。

「やるよ」

 両手で受け取った瓶は氷のように冷たく、雨に打たれたように濡れていて、夏の手のあの熱さはどこにもなかったはずなのに、僕はこの光景を思い出すときにはいつも夏の体温を思い出す。僕の手を掠めたかもしれない彼の指先を、寝込んだ僕の額に当てられる彼の手のひらを。ちょうど彼が考えなしに回しっぱなしにしていた水栓が自動的に閉まり、もう夕方だというのにまだ突き抜けようとする日差しの一筋が瓶の真ん中で揺らめき、僕の目に閃光となって飛び込んできたあの一瞬。僕の目を灼いた、ただひとつの一瞬。

 時間が流れ流れると、僕は背が伸びる。夏が塗りたくった青が何らかの化学反応を起こして、僕らを置いてどんどん遠ざかっていく。すると何故か、僕もそれに引っ張られるようにして背が高くなる。太陽も日に日に遠くなり、僕たちのもとに届く頃には何にも、どこにも害がない、ただの穏やかな光としてここにある。僕は日に日に、元気になっていく。いつまでも空を見上げていたいと思う。いつまでも庭先に立って、この陽光を受けていたいと思う。

 僕の背が高くなっていくのに反比例するように、夏は動けなくなっていく。ほんのひと月前には僕が毎日寝込んでいた縁側に、今度は夏が横たわる日が多くなっていく。ぴんと背筋を伸ばして光の下に立ち続ける僕の背中を、夏の力ない目が、羨ましそうでもなく、ただ安堵したような目が見ている。そうだろうと思う。彼の記憶の中には夕方になると寝込む僕、最大出力の太陽の光を鬱陶しそうに手で遮る僕、要するに体調の悪い僕しか存在していなかったのだから、新しい姿の僕、肌に血の通った僕、生き生きしている僕を見て、何かを思ってもらわなくては逆にこっちの立つ瀬がない。それでも、今の僕を見て彼が安心するのはいいとして、彼の生気を日に日に抜き取っているのは本当のところは僕なのではないか、僕が今こうして生きているのは彼を踏み台にしているから、彼があの暑い時期に作り上げていたるところに残してきたエネルギーを今僕が食べ散らかしているからなのではないか、と僕はいたたまれなさと僕が存在していることそのことに対して悲しみを覚える。夏も誰かの命を食い荒らして吸い尽くして生きたのだろうか。だからあんなに元気だったのだろうか。そして今度は、僕が夏の命を奪う、奪いたくなくても、奪ってこれからを生きていくということなのだろうか。

 横たわっていた夏が、何かを聞き取ったように視線を揺らめかせた。

「死んだ」

 言葉は夏の口から力なく滑り落ち、縁側を転がっていく。

「何が」

 僕が聞き返すと、「蝉が」と夏は答えた。

「さっきまで生きてた、今年最後の蝉、が。最後の一匹が、今、死んだ」  区切り区切りに言い終えると夏は大儀そうに体を起こした。そのまま、もう数日使っていなかった両足を踏みしめて立ち上がり、縁側からさらに奥の、日光の届かない薄暗い部屋の奥へと、摺り足でよろめきながら消えていった。もうあの両足は、上がらないのだろう。

 しばらくして戻ってきた夏が両手に提げていたのは、まだ蓋の開いていないペンキの缶たちだった。そんな重いものを、運ぶなら言ってよ手伝ったのに、と僕が慌てて駆け寄ると、それでも夏はきちんと縁側まで戻ってきてその缶たちを並べ始めた。彼は缶の手前に胡坐をかいた。そして、空いている自分の隣に手を添えて床を数回叩いた。そこに来いということらしい。僕は靴を脱いで縁側へ上がり、彼が示した彼の隣へ正座した。

 間近で見た彼の横顔は、僕の知っている夏ではなかった。頬はこけ、やせ衰え、短い髪はぎりぎりの糸のように細い。伏し目に重なる瞼は薄く、下を向く睫毛は色が抜けて灰色がかっていた。外にほとばしるものは何もなかった。今では僕の指先の方が赤く血が通っている。彼は乾いていた。その乾いた指が、左端の缶から順に指し示す。サルファーイエロー、ブライトゴールド、アムブロジア、キャロットオレンジ、ライムグリーン、どれも見たことがない、少なくとも、今まで夏が使ったことのなかった色たちだった。

「結局使わなかった。あんま好きじゃなくてさ、こういう色」

 僕が思ったとおりのことを、夏本人も言った。掠れた声で、照れながら。

「だから、お前がこれ使ってよ。あそこの木とか、あの山とか、俺が全部緑に塗っちゃったけど、こういう色に変えても面白いと思うんだ。単純にもったいないからってのもあるんだけどさ。んで青がもう無くて。でもまあ俺が塗ったやつ、長持ちしそうだしあんまり心配せんでもいいかなとは思う。あと、太陽の出力調整だけど、水栓の隣にボタンあるから好きに使って。太陽もずいぶん遠くに行っちまったからあんまりいじる必要もないかもしれんけど。でも、てことはこれからたぶん寒くなるってことだから、なんか、まあ、あったかくしとけよ。そのくらいかな、うん」

 色んなところを指さしながら夏は話しつづけ、最後に僕へと視線を帰って寄越して目を丸くした。僕が泣いていたからだ。

「赤がない」僕は涙をそのままにして言った。「ここには、赤がないよ」

 夏は僕の涙には何も言わず、ペンキの缶たちに目を落とした。左から右へ見比べていく。どれも黄色か橙色の派生のような色ばかりだ。

「そうだな」

 そして夏は、顔を上げて、僕があっと思う間もなく両手で僕の頬を包み、唇を押し付けてきた。乾いて、表面がぱりぱりしていても、弾力のある柔らかい唇。

「噛んで」

 僕の口の中に、夏は言葉を落とした。噛んで。口の中に響き渡る。夏は奥へ差し出すように、僕の歯の間に唇を滑り込ませようとした。だけど上手くいかなくて、代わりにもっと奥へと入ってくれるような舌をぴんと伸ばした。唇よりもずっと密度があって、硬い。僕の歯の間に、夏の舌が挟まっている。

「秋」

 僕は目を閉じた。また涙が流れた。それから顎にありったけの力を込めた。

 天は高く、太陽は少しずつ寝坊と早退を繰り返すようになり、僕は上着を一枚多く羽織るようになった。夏がいつも使っていた脚立の背を少し低くして、僕はペンキの缶を片手に木々へと上る。彼が一様に緑色に塗り散らかしていった木々たちの葉を、自分の感覚でそれぞれ黄や橙に塗り替えていく。緑を一度落とすということはできなかったから、上に少しずつ、薄く色を重ねていった。木々は幾千と立ち伸び、葉ともなると無限にも思われるほどの数があったけれど、たったひとり、話し相手もいない生活には、むしろ無限と在ってくれた方が心が安らいだ。一枚一枚手に取って、夏が使っていたような豪快な刷毛ではなくて、部屋の隅から見つけてきた何本かの絵筆でもって僕は葉を塗りつづけた。木々にも多くの種類があることを知った。似合う色もそれぞれあるということを知った。色を塗り分ける楽しみがあるということもゆっくりと感じ入るようになった。

 天は高く、日が傾くと世界は丸ごと金色になる。それも、僕が日々色を塗り替えていることにもよる。夏が塗った色が、僕の手によって移り変わっていく。

 缶を手にぶら下げながら歩いていると、ある木が、まるい実をつけていることに気付いた。近づいてよく見てみると、片手で持てる程度の大きさで、それでも手に載せてみると思った以上に重かった。こんな重い実を、この木はこんなにたくさんぶら下げているのかと感心した。その木はまだ僕が色を塗り足す前で、葉も、実も、一様に緑色をしていた。

「きみは、食べられるのかい」

 僕は手に載せたその実に声をかけた。返事はなかった。風は散りばめられた葉に何度もぶつかって勢いを削がれ、ただやわらかく僕の髪を揺らした。葉擦れの音。これも、ひとりになって初めて、こういう音があるということを知った。外の世界は、ひとりでいると際立って語りかけてくる。

 実をぐっと掴んで引っ張ると、枝は少し抵抗はしたものの、ぱきっと小気味良い音を立てて実を離した。まるく、枝に繋がっていた上部と底が少し窪んでいる。それ以外にはまったく均一で、バランスのとれた左右対称の美しい形をした実だった。

 僕は木の根元に腰かけ、幹に背をもたれた。羽織った上着の、右側のポケットを探って取り出した小瓶の蓋を開け、そこにいちばん細い絵筆を突っ込んだ。絵筆が含めた色をその実に丁寧に載せていった。上から下へまっすぐ線を引くように、力の込め方が乱れないように手首の使い方に気を使った。くるくる回しながら線を引き続け、一周させた実は見違えるほどに手の中で美しく、目が覚めるような鮮やかな赤を纏っていた。この色こそを待っていたのだと高らかに歌い上げているようにも見える。似合っていた。何よりも似合っていた。

 僕は天を見上げた。葉と葉の間から差し込んでくる光がずいぶん傾いていて、この実にかけた時間を感じた。

「夏」

 僕の声は風が受け取り、何処とも知れぬ場所へと運ばれる。僕は真っ赤な実を天に掲げた。

「君が太陽を最大出力にしたおかげで、こんな実ができていたよ」

 僕は実を口元に近づけた。夏の血の匂いがした。そっと口づけた。少しひんやりとしていて瑞々しい、夏の血の味がした。彼の唇よりも、舌よりも、ずいぶん固い。だけどまた会えた。会えたね、夏。

(噛んで)

 夏の声が聞こえたような気がした。僕は目を閉じる。涙は出ない代わりに嬉しくて、実に口づけながら僕は笑っていた。夏。僕の夏。僕が塗った世界を見て。きれいでしょう。あらゆる全てが色づいている。だけど今、やっぱり君が、いちばんきれい。

 僕の夏。大きく口を開けて、僕は思いきり歯を立てた。

COLOR’S END (Autumn) / 20171210

@kyri
日々と二次創作の間で