20231228

kyri
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公開:2023/12/28

昨日で仕事納め。今日は休暇を取って、一足お先に正月休みに足を突っ込んでいる。まだ両親は仕事なので、家に一人でいる。クリスマスもそうだったし、私は割と家に一人でいることが多いのかもしれない。暖房の効いた居間に自室からmacbookを持ってきて、広い空間で悠々自適にものを書いている。

宮本浩次「夜明けのうた」を聴いてたら初日の出を見に行く推しカプが書きたくなるでもどうなるかわからない、と先日の日記に書いたけれど、やっぱり書きたくなって今書いている。とてもいいこと。最近二次創作のことを考えるのも、書くのも辛くて、私は本当に二次創作が嫌になってしまったんだろうかと慄いていたのだけど、今書いてる話が辛いというだけで二次創作そのものを嫌いになったわけではないらしかった。ありがたい。私にしてはスラスラ動くキーボードを叩く指を他人事のように眺めながら思った。ありがたい。私はまだ書けるのだ。とは言え一番書かなくてはならない小説の続きが辛くて進まないことは確かなので、それを考えるとまたちょっと憂鬱になってしまう。お友達は「また書きたいと思える時が来るまで寝かせてもいいと思う」と言っていたけれど、私はそのお言葉に甘えて寝かせまくってたらいつしか書かなきゃいけないこと自体を忘れてしまいそうなんです。ペース配分って難しい。そもそも、何かを作ることはとても難しくて、とても果てしなくて、とても途方もない。そんなことを日々こつこつとやっている人はみんな、みんな貴いのです。

植本一子『かなわない』を読んでいるのだけど、一子さんの育児が限界すぎて読んでいてとても辛い。これは一子さんの数年分の日記を一冊にまとめた本で、私はずっと一子さんの日記を読んでいるわけだけど、言うことを聞かない娘にブチ切れて椅子を冷蔵庫にぶち投げてしまったとかそういう記録が隠されることなく詳細に書かれているので喉の辺りがキュッと締まるのを感じたりする。誰かここから出してください、というある日の日記の終わりにくらくらしたりもする。壮絶だ。壮絶な戦いだ。負けると分かっていてなお挑まなくてはならない戦いだ。どれだけ打ちのめされても叩き潰されても体を抉られても白旗を上げることだけが叶わない地獄の戦いだ。一子さんが娘二人を深く愛しているのもまた同時に伝わってくるだけに、ここに書かれていることは地獄だと思った。

地獄の限界育児、といえば金原ひとみ『マザーズ』を読んだときも全く同じ感覚があったなということを思い出していた。あれはフィクションだったけれども、金原ひとみ自身が経験したワンオペ育児の地獄の煮凝りそのもののような小説だった。金原はのちにインタビューでも彼女のワンオペ育児を振り返って、今でも鮮烈に、心の底から怒りが湧き上がってくるという。殺してやるとも語っていた。先日の朝日新聞デジタルに掲載されたエッセイを読んだ方も多いかと思う。「あれはあってはならないことだと断言できる」と彼女は書いていた。

夏に幼馴染と久しぶりに会って、彼女はまだ小さい子ども二人を連れてきていて、彼女は終始笑っていたけれど、上の子が気難しくて今朝も喧嘩してきたんだとか言われると、私は何も言えなくなってしまった。刺激的な日々だよ、とも。私は人生が刺激的になるのはそれはそれでいいと思うけれど、どうか、彼女が壊れないでいてくれと、彼女の笑う横顔に祈っていた。それも伝わらないことではある。子供を持たない私では彼女と共有できることが少なすぎる。私が限界育児を描いた本ばかり読んでいるから悲観的になっているだけかもしれない、けれど彼女に、そんなことがあってはならないのだ。私の大事な幼馴染に、そんなことがあっては、ならないのだ。

私は金原ひとみが大好きなので、お気に入りのインタビューを紹介しようと思う。これ。『アンソーシャル・ディスタンス』が刊行された時のものだ。

そもそも人間にはそんなにバリエーションはないんじゃないかと思っていて。どんな人でも、ある程度理解できるところがある。ドラマなどでとんでもない悪党が出てくることがありますが、そんなことはないだろうと(笑)。ヒーローも悪党も、超越的な存在として描いてしまうのは不誠実だと感じます。

実際に音楽や小説があることで、自分の命を救われた実感がない人に対して、どうやっても伝えられないだろうなという壁は感じます。私は創作物に命を救われたことがある人と、そうではない人で、人間を二分して考えているところがあって、そうではない人とどう共存していったらいいのか、未だに模索しているところがあります。でもだからこそ、届くかどうかわかりませんが、小説という形で、表現すること、表現を享受することで生き延びてきた人のモノローグを書くことが重要だと思ったんです。

もちろん現実的には、より差別の少ない社会を目指すべきだと思っています。ただ同時に社会全体が正しい方向に進む中で、どこがこぼれ落ちるのか。文学でしか救済できない領域は、どこにできていくのだろうと最近よく考えます。

 小説というのは、間違っていることを正しい言葉で語る側面があると思うんです。これから先は誰が排除されていくのか。たとえば、老害と切り捨てられてみんなに嫌われる高齢者男性、警察に突き出されるような痴漢かもしれません。そういう人は誰からも共感を得られず容赦無く袋叩きにあうようになっていく。でも小説というのはある程度、誰からも共感されず、みんなから「死ね」と思われるような人たちのためにあると思っています。

 「テクノブレイク」では、最後のほうで主人公がゴキブリに自分を投影するシーンがあります。「どんなに命の平等が叫ばれても、ゴキブリは別枠だ。汚くて、気持ち悪いからだ」と。みんなから嫌悪されて、排除を望まれる人たちがいる。私はそういうゴキブリとしての言葉を書き残していきたいんです。

「ゴキブリとしての言葉を書き残していきたい」という一言に毎回痺れてしまう。

今夜はビリー・ジョエルのフィルムコンサートに行く。ビリー・ジョエルのコンサート映像が映画館で上映されるのでフィルムコンサートということ。ビリー・ジョエル、pianomanくらいしかちゃんと知らないけど大丈夫だろうか。

@kyri
週末日記