離散的なAI、連続的なAI

kzinmr
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体験の連続性と離散性。AIの活用用途について話している時に、なんとなく浮かんできた表現。似た対比としてaugumentationとautomationという対比がある。自分の能力を拡張する用途か、自分のワークロードを置き換える用途かという対比のこと。コントローラビリティに注目した対比だともいえる。

対して離散性と連続性という言葉が浮かんだのは、AIが使われるシーンの時間軸に関する観点だ。チャットや壁打ちのような、延べっとずっとAIと話しているような用途を連続的な体験と表している。他方パイプライン的なワークロードの一部をAIで省力化したり、ある一回的な判断をAIに委ねたりといった用途は離散的な体験といった趣きがある。

この感想にはきっとAIのエンジニアからみた感慨も混じっていると思う。ChatGPT以前のAI活用は一部のワークロードの自動化・省力化がメインで、基本的に人間の作業を妥協して部分的に互換するようなツールが多かった。正直なところ作り手として提供することはあれど、自身がユーザーとして何かに活用するといった営みは殆ど行った記憶が無い。それこそ自動翻訳くらいだ思う。

対してChatGPTなどの対話生成型AIが出てきて、初めてユーザーとしてAIを享受し始めた実感がある。そこでの体験を振り返ると、自分の知らないことを尋ねたり、意見を求めてみたり、文書の要約と深掘りを委ねたり、AIと会話できるという事実の広がりを日々実感している。会話という形式で時間拘束のある用途にどっぷりとAIに向き合うこれまでに無かった体験をもって、連続的だと感じた。離散的なツールというよりも、一種のメディアやゲームのような、新しい時間のパイを奪う実体が立ち現れてきたという趣きだ。

時間は貴重で、AIと何かをする時間は最小限に絞るか丸投げで委ねて非同期化するかといった発想が生産性の文脈では主流だ。しかしそこに進んで時間を使う価値が見出される、連続的なAI、メディアやゲーム、ひいては存在としてのAIが我々の生活に染み込んでくるまでにそう時間はかからないのかも知れない。こういった、進んで時間を奪われるようなAIの性質に、最近は興味を惹かれている。