前に「AIの作文はなぜつまらないのか」という記事を書いた。AIの文章は分量のわりに情報量が少ないし、面白さを自動で評価する仕組みもないから、みたいな話だった。今回は逆に書き手としての話をしたい。
きっかけは cognitive-rhythm-writing というスキルがタイムラインに流れてきたことで、これは色々要素があるけど、日本語の文章に緩急を設計するための規範として、駄文を「状況を更新する文か、文書を更新するだけの文か」で切り分けるというもの。
調べてみると英語圏にもこの手の生成済文章の改善スキルがたくさんあって、たとえば unslop は "delve" や em-dash (**や─?)みたいな、AIが好みがちな語彙や記号を片っ端から狩っていくスタイルだった。日本語でいう「刺さる」とか「効く」みたいな多用フレーズを狩るのに近い。片方は文章の構造から作り直そうとして、もう片方は指紋を消しにいくので方向はちょうど逆なんだけど、やろうとしていることは結局同じで、AIっぽさを消したいということだと思う。
正直に言うと cognitive-rhythm のほうは読んでもまだピンと来ていない。具体的な批判というわけではなく、評価できるだけの知見が自分にないので試している段階。ただ、駄文を「状況か文書か」で切り分ける発想はなるほどと思った。実際この文章でも、アンチパターンに該当しそうな文をいくつか削った。逆に、最後に緊張を一つ残して終われ、みたいな規範のほうは、NotebookLM のポッドキャストが必ず「皆さんはどう思いますか」で終わるのと同じで(これはLLMの特性ではなく内部プロンプトだが)、型として決まりすぎるとかえってあざとく見える。観測しているかぎりこのスキルの世の中の反応も割れていて、便利だと言う人もいれば、Fable 5 に素で書かせた初版のほうがマシだと言う人もいて、このアプローチの良し悪しはまだ定まっていない。Claude以外の文章に対してはどうなのという話もある。
ただ、スキルの中身そのものよりも、日本語でも英語でもこういうツールが次々に作られていることのほうが気になった。まさに覇権コンテンツ。みんなそんなにAI臭さを消したいのか、と思う。自分にとってAIで書くのはIMEや予測補完を使うのと同じくらいの感覚で、そんなに特別なつもりもないので、多少AIっぽい癖が残っていても別にいいんじゃないの、と思ってしまっていた。だから、世間のその熱量のほうがむしろ不思議だった。それはそれとして、じゃあなんで消したいんだろう。
しばらく色んな視点で考えてみると、いちばん大きい理由はやっぱり仕事なんだと思う(workslobという言葉がある)。いまはもう仕事でAIを使わざるを得ない状況になっている人が多いし、AIを使えば速く書けるので、とにかく速く出すほうにインセンティブが働く。ただ、そうやって出したものを同僚に読ませるとなると話が変わってきて、できるだけ迷惑をかけたくないとか、不快に思われたくないとか、AIに丸投げして責任を持たない人だと思われたくないとか、そういう理由でみんな渡す前に「消す」作業をしているんじゃないかと思う。つまりAI臭さを消したいという動機は、仕事でAIを使わざるを得ない状況とセットになっていて、そこから逆算するように生まれているんじゃないか。
ひとつ補足しておくと、cognitive-rhythm を作った k16shikano さんは編集者で、書き手の文章をより良くするのが仕事の人なので、ドキュメントが仕事の中心にある人ならああいう規範を作りたくなるのは自然だと思う。だからあのスキルの動機はたぶん本当に文章を良くしたいというほうにあると思う。
ただ、動機のほうを分けて考えると、この「消したい」というのはけっこうあやしいと思う。ひとつは本当に中身を確かめて自分の責任にすること、もうひとつは確かめたように見せて追及されないようにすることで、unslop みたいに指紋だけを消すツールはどう見ても後者に近い。感覚としては、開発を安い労働力に外注しておきながら、これは自分が作りましたと言いたい、みたいなことに近いと思う。
そういう、中身を確かめないまま視界に入ってくる記事や文章を、自分は繁華街にできた目立つ店みたいなものだと思っている(といってもAIの文章ぜんぶではなくて、バズっていたり目につきやすかったりする記事のほうだけど)。看板は立派だし行列もできていてみんな旨いと言っているのに、本当に食べた人はいないし、店主すら味見をしていない、みたいな不気味さがある。
その行列ができるのは、いまのSNSがいかに低コストで人の注意を奪い合うかというゲームになっているからで、バズっている長文ほど「なんでこんなものが」と感じることが増えた。あまり読まれていない生成記事より、たくさんシェアされているそれのほうが引っかかるのは、目立っていること自体が刺激になっているんだと思う。
ただ、自分でもよくわからないんだけど、情報を拾うだけのつもりでザッピングするように読んでいるときは、その口当たりがほとんど気にならない。腹が立つのは、ちゃんと時間を払って読んだのに中身が薄かったときで、たぶんあの損した感じがAI臭さへの不快の正体なんだと思う。
こうなってくると私は長文を最初から読まなくなって、短くて手短にシェアされているものか、一次情報のほうを選ぶようになりがちだ。そうすると、ボリュームのある文章に対して求める掘り下げのハードルはどんどん上がっていくので、生産コストは下がったのに期待値のほうが上がってしまって、書くこと自体はちっとも楽になっていないのが皮肉。同じ武器を使ったコンテンツ生産競争なので仕方がない。
この文章は、自分の意見をもとにClaude Codeと1時間くらい議論してさらに1時間ぐらい編集して書いた。こういうタイトルにしておくと注意をひかれた人々が各々持論を書いてシェアしてくれるし自己言及的な構成になっている。読み返してみると途中からビジネス文書の視点を入れたからコンテンツ制作と論点が混じってノイズになっているのが思考リズムぽいなと思う。怒らないでね。