テレビドラマ『滅相も無い』第四話|“私”はどこに存在するのか

『滅相も無い』というドラマがおもしろい!です!

地上波でもやってるのかな。私は今のところ(5月13日現在)第四話まで観ました。残りもあとわずか?ひとまずここらへんで、ああだこうだ書いてみることにします。いつものことながらあまり構成を考えず、思いついたことから書き置く。読み手からすると、ナンノコッチャですよね。

このドラマはどこもかしこもツッコミたいところだらけで困る(笑)

まずは世界観を簡単に。

ここはね、ネタバレもヘッタクレもないというか、どの回にも共通するところなのでそのまま書きます。視聴前に読んでも大丈夫でしょう。端折りたい人は下記のYouTubeの公式予告を見てみてね。

1話30分程度、一つの世界を共有しながら一話ごとに主人公が変わるテレビドラマ『滅相も無い』。舞台は、限りなく現代に近い時代の日本です。そこに突如、田舎も都会も関係なく あちこちに大きな穴ができます。

ここでもう(゚Д゚)ハァ?ですよね。

あまり仰々しい顔文字はつかいたくない(絵文字は絶対つかわないマイルールを課してます)けれど、これもうほんとに(゚Д゚)ハァ?よね。

飲み込んでください…

穴のサイズは家くらいのから都会のビルよりも大きなものまで、いろいろ。見た目はシワシワ暗めの茶色をしています。なんだかちょっとほくろみたいな、人体のパーツっぽい。極めつけは、穴に入ってから帰ってきた人は未だにいないという…内部もまた、奇妙なんです。現状、グロ要素はありません。食前・食後でも観られますよ。

作中の人々も穴が出来た当初は、みんな戸惑います。しかしさすが、適応力高いんですね。政府も扱いに困って、アートや一種の景観として穴を受け入れ、これといって特に何もしないことにしました。穴に入る人かどうかも個人の自由です。しばらくして、明確にはいつ頃か分からないんですけど、堤真一さん演じる小澤という男が穴に入る?だったかな?とにかく穴の宗教を興します。教義はうろ覚え。

その宗教団体の信者たちが施設に集まって、各々穴に入ろうと思い立つまでの身の上話をする。これがこのドラマの大枠です。“施設”といっても、プールついてたりバーベキューしてたり、めちゃくちゃテラスハウスみたいなお洒落具合なんですけどね。そこもなんとなく奇妙でおもしろい。

ああ!他にも撮影手法や俳優さんたちの演技などいろいろ言及したいことが山ほどあるんですが!

キリがないので、ここまで観てきて とても印象的だった第四話の感想(になってそうでなってない自分語り)を書きます。ネタバレあります。少しでも興味がある人はTVerやNetflixをチェックしてほしい…そして感想を聞かせてください。

イギリス生まれの日本人・青山

第四話の主人公は、森田想さん演じる青山。母親の仕事の関係でイギリスで生まれ、小学校進学を機に日本に帰国したバックグラウンドがあります。両親ともに日本人で、自分も生粋の日本人だと念を押した上で彼女は語りはじめます。

正直、青山の回は観ていて心が痛かった。

私はいろんなものが勝手に刺さる、本や映画やドラマの受取手として極めてチョロい人間なのですが、今回は刺さるというか、ほんとにグサグサ痛かったです。涙じゃなく血が出た。

話題になるドラマや映画に出てくる人物って「こういう人、絶対いるでしょ」を描写するのが上手いですよね。

それに対して『滅相も無い』に出てくる各話の主人公たちは、たどたどしさやぎこちなさを感じさせるんですよ。一見ドラマや映画に似つかわしくない“主人公になれない人たち”が集まっているんです。ギラギラしてない。むしろ控えめで、優しすぎて少し損をするような人たち。

もちろん、どんな人にもドラマがあって、人生の主人公はその人本人だ!という一般論は間違いではないと思います。

ただ、青山は少し、他の人物たちとは異なり

「彼女は彼女の人生の主人公でいられたのだろうか…?」

という印象を強く受けました。第一話の“怒れない男”も少し近いかな。

うーん、なんだろね。

その人がその人たる所以というのは、どうやって出来上がるんでしょうか。

生まれたときから持っているものなんでしょうか。

後から得たものはどうなんでしょうか。

途中で人から与えられたものは、どうなんでしょうか。

「出来上がる」という言葉も正確ではない気がします。「生まれる」とか「自覚する」とかでもいいかもしれない。

第四話のラストシーンで、青山は横断歩道を渡る前にわざわざこちらを振り向き、ハッキリ言います。

その言葉たるや。

青山のようなバックグラウンドがなかったとしても、きっと誰しも一度は考えたことがあることではないでしょうか。

「どうして私は私としてここに産まれて、生きているんだろうか」

という答えのない、しかし答えがほしい問いを、青山の人生から考えてしまいます。

青山の生い立ちは、傍から見ると恵まれているように見えるかもしれません。日本人ながら外国で生まれ育ち、英語は実質ネイティブです。母親も教育熱心で協力的かつ本人も勉学に秀で、学生時代はバレエを習っていた。大人になった今では日本語も当たり前に話せます。ただ、彼女はどこか一度でも自分の人生を自分で選択できたことがあったのかな。

親が子に渡す地図

かく言う私は日本生まれの日本人です。高校と大学の一部を海外で過ごしました。母親の勧めであったことも同様に、青山と類似点があります。

しかし唯一、青山と私が違ったのは「自分で選択できたか」という点だと思います。

イギリスに生まれるという選択も、小学校で日本に帰るという選択も、バレエを始めて続けるかどうかという選択も、どれも青山自身ではなく、彼女の母親が決めました。

私も多感な時期を母の勧めで海外で過ごしたものの、青山の母親のように「こうしなさい。なぜなら、こうするのが一番良いのよ」という目線ではなく、「生きる場所はこの町だけじゃない。日本が狭かったら、外に出ればいい」という目線でした。

簡単に言ってしまうと、一本道しか描かれていない地図を渡されたのか、脱出ゲームの地図を渡されたのか。これは大きすぎる唯一の違いかもしれません。

「それでよく青山のエピソードが刺さったな?」と思いますよね(笑)

青山の人生や気持ちは彼女にしか解らないのは確かです。ただ、言葉や文化への戸惑い、挫折…ここはほんとに昔の自分を思い出しました。

青山の母親が示した一本道というのは、要は最短距離で安全に生きていけるルートで、おそらく母親も自身の苦労から親心として青山に渡したものだろうと推察します。こういう親はマッッッジでよく見ます。我が子に対する思いが強く、それ故に子供の向き不向きにもよく気がつく。だからなるべく、いい環境で才能を伸ばしてあげたい。理解できます。

残念なのが、当の親自身は誰かから客観的に見てもらえないこと。

「あなたにとっての安全な最短距離は、他の人にとってもそうであるとは限らない。たとえそれがあなたの子供であったとしても」

という話にたどり着くまでの道のりは容易ではありません。本来ならば、子供や周囲の大人がその客観的立場を担ってくれそうなものです。しかし、大人からすると子供は守るべき対象であって、自分も子供から同様に見られているという意識が薄くなってしまいやすい。他の大人たちは、悲しいかな、大人なので我が事に忙しく、わざわざ人間関係や状況を悪化させるような役割は好まないでしょう。

青山たちのような親子関係を見ていると、そのまた上の世代にも思いを馳せてしまいます。青山の母親は、子供の頃にたくさん自分の遊びたい方法で目一杯遊べたのでしょうか。

美しい人生

「こういうおもしろいドラマがあったよ!」

と鼻息荒く語りたくなる時があります。

今がそれです。

そしてその鼻息が落ち着いてしまう瞬間もあります。

登場人物の生き様やドラマの内容に触れる時です。

人生にしろ作品の内容にしろ、流れというものを分かりやすく簡潔に、どうにか上手いことまとめようとすればするほど、記号で満ち溢れてしまいます。

これが私として全くおもしろくない。

つまらないとまでは言いません。“ものはやりよう”ですから。

つまんなそーに書いてしまってたら、そればっかりは「ゴメンナサイ」です(笑)

青山の話にはさまざまな人物が出てきます。青山の母、小学校のクラスメイト、日本で初めて友達だと思えた山田、中学校のクラスメイト、バレエの先生、バレエの仲間。いわゆる、モブらしいモブが少ない。青山は一本道の地図を持ちながらも、青山らしく丁寧に生きていました。

「ここに行けばこれができる。この人に会える」

青山は自分の人生を記号化してしまわない、好きと居場所を見つける才能があったと思います。その人が持つ美しさって、こういう記号にできない部分に在るのかな。

人生は一本道なのか

穴のある世界で同じ時代にたまたま居合わせて生きている青山たち。

毎話主人公が変わるドラマが最終的に一つの物語となるように、もしかするとその人がその人たる所以というものは一つの身体でおさまることはなく、自分で選べたこと、選べなかったこと、持てたもの、持てなかったもの、もうありとあらゆるものを交え、時間の上に一つのになるところに在るのかな?

ちょっと一文が長すぎますが(笑)

エッシャーの絵がイメージとして近いです。

人生にまつわる言葉を見ても「ルーツ」だとか「バックボーン/バックグラウンド」だとか、やはり一つの道筋を感じられるものが多いですよね。だからつい、歩む前も歩んだ跡も一本道だとイメージしてしまってました。我ながら堅い脳です。

『滅相も無い』というおもしろいドラマと出会い、青山の話を聞いてみたら、人生とか生きるとかを一本道のような平面ではなく、立体的な集合体として捉えられたような気がします。

考えてみると、ドラマの演出も舞台らしいというか、ルービックキューブように立体的なんですよね。そこにも注目!です!

これからどうなってくんや

えらく生きることに不器用で、喋りも下手な人たちばかりな『滅相も無い』。

「ああでもぶっちゃけみーんなそうだよな」

この主語デカを許してくれそうな気配がこのドラマには、あります。

以下、自戒を込めて。

実は人間って言葉も繋がりも下手っぴしかいないんじゃ…?

人間の発明として素晴らしいものであったはずの言葉や協調性に悩まされているのもまた人間だけ…?

意地悪を言いたいわけじゃなく、たとえ話なんですけど、俳優さんたちのように、ある種の演技、嘘、そして己にどれだけのスポットライトが当たっているかどうかで立ちふるまいや人格を変えてしまったほうがむしろ生きやすいのかも。TwitterやInstagramなど、匿名という別の名を自分に与えて、画面を通して人と関わる。自己を演出する。

現実はそんなことなかなかできないですよね。

人生かかってんよ!みたいな大舞台こそ、“生身の私”でいないといけない。

「追い詰められたときにその人の本性出る」

なんて言うけど…誰ですか!?そんなこと言いはじめたの!(どうした落ち着け)

嘘やスポットライトを上手にまとうことができたら、この現実世界でも主人公になれるんでしょうか。ギンギラギンにさりげなくは夢まぼろしなのかな。

仮に、自分のことを自分で選択できなくなったとしても、見つけることは忘れずに大切にしていきたいですね。

@lalalanp
ライターや占いをしています。趣味はラジオ。健康第一。