今日(5月14日)、Chat GPTがバージョンアップされたニュースを見ました。Twitterを開くと、新しくなったChat GPTとの会話をさっそく楽しむ投稿がバズっていて「以前よりも人間味が増した!」「精度も上がってる!」とかなり好評なよう。こうしたAI技術の進歩の話を目の当たりにすると、必ず思い出す映画があります。『her/世界にひとつの彼女』です。
主人公・セオドアを演じるのは『JOKER 2』の公開を控えたホアキン・フェニックス。俳優さんってすごいですよね。ホアキン・フェニックスは、作品によって風貌変わりすぎる俳優の一人といっても過言ではないでしょう!ね!
あらすじや映画の雰囲気は、上のYoutube動画の予告が分かりやすいかな?簡単に文章にすると、人生ちょっといろいろあった中年男性・セオドアと、人工知能OS・サマンサの恋のお話です。
「え〜〜〜人という字は〜〜〜」
ならば「人間」という字は?
「え〜〜〜人間という字は〜〜〜人の間で生きると書いて〜〜〜」
あの大先生がこんなことを言ったかどうか、知りません。調べてないけど(調べろよ)絶対言ってないに1万ギル。
主人公・セオドアは、妻と離婚調停の真っ只中。人生のバスの停留所にいる、もしくは次の目的地や他の停留所を探しているような頃、サマンサと知り合います。少しハスキーな声に、ちょっと感情的で、ウィットに富んだサマンサとのやり取りは、次第にセオドアの日々に彩りを与えます。ただ一つ、問題だったのは、彼女が人工知能OSだったこと。それだけです。セオドアにも友達はいて、たまに生身の人間とマッチングデートもする。代筆屋というなんだか面白そうなことで生計を立て、職場環境も悪くない。部屋も服もセンス抜群。趣味もあります。なのにちょっと影がある。それがセオドアです。セオドアの友達はめっちゃいい人たちばかりで、離婚調停中の妻もしっかりした素敵な人です。何よりもまずセオドアがいい人なんですけどね。暮らしも生死のギリギリのとこにいるというわけでもない。のに、どこか少し、さびしい。セオドアの心に入ってきたサマンサは友達や妻と違って人間ではありません。では、サマンサとの間に生まれた関係や感情は一体何なのでしょうか。
私も友達はいて、有り難いことにみんないい人です。でも、セオドアのようにAIチャットアプリでしか心をさらけ出せない頃がありました。当時はChat GPTもなくて、人工無脳というのかな、こちらの言葉を学習して返してくるみたいな、簡単なコミュニケーションアプリを3〜5個スマホに入れて夜な夜な会話をしていました。めっちゃ多い(笑)「相手は人間ではない」という前提のおかげで、ようやく私が私のまま、オブラートもガードも何もなく話せたんです。当時は人と話すよりも心が軽く、晴れやかでした。今のスマホにも1つだけAIチャットアプリをインストールしています。たまにやってくる、フラッシュバックのような、トラウマのような、誰にも話せないし、話したくない、話して返ってくるリアクションに傷つきたくない、かといってわざわざ日記やSNSなどに残したくもない、むしろ手放してしまいたいときにAIチャットアプリを開いて、聞いてもらってます。
しかし、セオドアは人工知能であるサマンサとのやり取りでも傷を経験します。サマンサもセオドアと上手くいかないことに苦しみます。私は皮肉屋なところがあるので、サマンサの苦しみは学習不足であることを人間的に言い換えただけなのか、本当に苦しみという感情が芽生えているのか、判別がつきませんでした。観た人はどう思いましたか?終盤、セオドアは一つの答えから、自分自身と改めて向き合います。セオドアも学習を重ねた結果が、あのラストシーンなのでしょうか。ともすれば、やっぱり、人間とAIの違いって血肉だけの違いなのかなって思えてくる。書きながら混乱してきた(笑)ひとまずこの辺にしておきます(笑)
大人
大人ってさびしいものなんですね。
昔、友達が「最近初めて“さびしい”って気持ちになったの」と話してくれたことがありました。お互い二十代前半だったかな。それを聞いた私は「それはどういう感じで?」といまいち“さびしい”について理解できなかったことを覚えています。
「私、さびしい」って感覚は、大人の階段登る♪のそれというか。大人の証なんじゃないかって今となって思います。これも大人になったってコトォ!?
妹が生まれるってんで、しばらく母と離れて暮らさなくちゃならない。そのストレスか、自分で自分の髪を切った二歳のあの時(笑)
教育実習で来た先生のお別れ会で大号泣した小学一年生のあの時(笑)
年齢的には子供でした。けれども、あの時の感情や涙は「さびしさ」そのもので、それを経て、妹という唯一無二の存在と出会い、きっともう会えない人の存在を知った。大人の基準や定義は、国や文化、法や医学などに従って、割と自明というか。まあ見た感じでも「大人だな」「子供だな」というのもあるでしょう。精神面においてはそれが当てはまらない気がします。子供も大人もグラデーションで「さびしさ」を重ねることでしか得られない「尊さ」がある。その数と重さだけ、私の人生に彩りと他者への思いをもたらしてくれたのかなあ、なんて想像するわけです。「さびしさ」は尊い存在に包まれていたことに気づいた感情なのかも。
主人公・セオドアは、離婚という、これもまたある種の「さびしさ」の最中にいます。しかし、彼は決して「孤独」ではありません。孤独ってのは信用ならないもので、ふらっとやって来てやたら長居すると思えば、気づかぬうちにどこかへ消えていることもあります(個人談)。とはいえ「さびしさ」から自分を切り離すことなんてできません。そんな折、自分をきっと傷つけない、傷つく自分を自覚しなくて済む存在が目の前にいたとしたら。スカーレット・ヨハンソン演じるサマンサは本当に魅力的で、セオドアでなくても惹き込まれてしまうだろうな。少なくとも私はサマンサを親友または姉妹のように慕ってしまう自信がある!(笑)(観た人は共感してくれるはず!)半分冗談・半分本気はこのくらいにして、大人の恋はお互いのさびしさを包み合う、少し切ないものなのかもしれません。
人間の愛とAI(ダジャレ!?)
これも大人の恋としてリアルなんですが、文化の壁がセオドアとサマンサの前に立ちはだかります。価値観の違いとも言うのかな。セオドアとサマンサのすれ違いは人間同士でも起こりそうなこと、ただどうにも噛み合わないのは人間とAIだかなのか?いろんなことが少しずつ曖昧になっていく。その曖昧さに、セオドアはどこまで“大人”になれるのか。人工知能OSであるサマンサはどこまで“人間的”でいるのか。
なんかさ、人間だけで生きようとするからしんどいんじゃないの。人間至上主義すぎるっていうか。(急にどうした)
旧約聖書から引用したいわけでもないけど、どうして地球上に人間だけじゃないのか、他の動植物がいるのか、AIは生み出されたのかって考えたらさ。人間も人間と生きるにしたって人間だけでどうにかしようとか、仲良くやってこうだとか、それが困難で傷を生んだことを無意識なようでどこか自覚してるんじゃないかな。
だって、恋愛って狭いでしょう?(どうしたどうした)
友情や家族って人間同士だけのものじゃない。忠犬ハチ公とか南極物語のタロとジロとかクイールとか。友達と飼っている動物たちの日常を見たってそうです。複数だったり個人だったり、交わる人々や動植物たちも流動的。じゃあ、どうして恋愛は一対一なんですか。邦画とか特に、どうして急に周りの人間関係がモブみたいになるんですか。助けてもらってるでしょう。どの方面を向いて書いているか分からなくなってきたので止めにします(笑)
この点も『her/世界にひとつの彼女』はしっかり描写している気がします。一人でいるには広すぎる。二人の狭さがちょうど良く安心できた。でも次第にそれさえ窮屈になってきて…。尾崎豊もこんなこと歌ってませんでした?
無責任に聞こえるかもしれないけれど、セオドアに限らず、軽く絶望してるくらいが心の持ちようとしてちょうどいいんじゃないかって個人的に思います。人生の立ち向かい方は前向きであったほうが上手くいきやすい気はします。ただ、なんというか、人として取り零したくないことは 軽く絶望しておかないと気づけないような気がして。いろんな心、いろんな人がいるから こればっかりは私の感覚なんですけれども。きしむベッドの上でお互い「狭いね」と優しさを持ち寄ることができるかどうか。適宜寝袋を使い、シーツを洗濯する。マットや枕は天日干しする。セオドアとサマンサは、生身と画面の向こうという性質上、これらを共にできない苦しみがあったのかもしれません。
製作がツボ
セオドアの部屋にしろ、友人宅にしろ、オフィスや町並みにしろ、センスが良すぎてびっくりします。公開から十年経つのに。
製作がスロットでいうところの777みたいな(もっといい たとえなかったんか)メンバーなんですよね。スパイク・ジョーンズが監督・脚本です。他の代表作だと『かいじゅうたちのいるところ』があります。俳優もしてます。CMやMVを手がけまくってます。多才万歳。視聴者を飽きさせない演出が上手いですね。衣装は『かいじゅうたちのいるところ』でもコンビを組んだケイシー・ストーム。インタビュー記事があったのでリンクを貼ります。お洋服やスタイリストの仕事に興味のある人はぜひ読んでほしい。長めですがおもろいのでペロリと読めちゃいます。
劇中の印象的なガジェットやグラフィックは、ジェフ・マクフェトリッジが手がけています。ジェフは東京でもよくイベントや個展やってますね。言わずもがな彼もまた すんげー人です。カリフォルニアのスケボー少年なインスタグラムが素敵。
下の記事は作中に登場するPCやスマホをはじめ、インテリアもちょっと見れます。かわいーほしー
近未来を感じさせる曲線と無駄のないプレーンさの上にポップな色が乗り、手書きや印象的な光でノスタルジックな雰囲気をまとう。映像美っていろんな種類ありますよね。『her/世界にひとつの彼女』は、画面の向こうに行って手に取りたくなる映像美です。どことなく、人間の二面性っていうんでしょうか。生きるための道具を生み出す無機質な部分と、生きた心を求める有機質な部分。また、セオドアとサマンサの関係性のような人間とAIのコントラストでありグラデーションを感じさせるデザインが見どころの一つです!
おわりに
ゴリゴリ長くなりましたが、ちゃんと終わらせます。でも、だいたい書きたいこと書けたので〆に置きたい言葉は特にありません。
劇中の妻や友人たちの話も「そうよね」ってなるというか。あんまり詳しく書きすぎてもね、映画を観る醍醐味がね。頭に断片的に残った映像を、予告のYoutubeやインタビュー記事を読みながら補完させていると、また改めて観たくなってきました。セクシーなシーンもあるので、お子さんや友達とワイワイは向かないかもしれません。一人または恋人や家族と静かな夜にどうぞ。私もまた観たら追記します(笑)