「ぼんやりとした不安」ってよくわかる

lambency
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公開:2023/12/21

中学生くらいの頃、なんとなく背伸びをして流行りの漫画や小説以外のものを読もうとした時期がありました。自分は他の人間とは違う、と思いたかったのか。あるいは、自分と似たような感情を持っていた人を本棚の中に探していたのか。

とにかくあの歳の頃の私は自分の未来を考えることに疲れてしまっていて、考えても疲れるような将来を無邪気に信じて期待する元気もなかったので、『死』というものがテーマになっている小説をよく読んでいました。『風立ちぬ』、『野菊の墓』、『夏の葬列』、『人間失格』、『こゝろ』、『夢十夜』、それから……。とにかくたくさん読みました。今でも好きな作品はたくさんあります。でも、自分の心の傷を隣に置いてからただ直向きに目の前の小説を読んで楽しむことが出来るようになったのは、随分と後のことだったような気がします。

死んだら人間はどうなるか?それは弟の事故を通じて垣間見たことです。私のようなちっぽけな人間が死んだところで会社の人は「そうなんだ」で終わらせてしまうのだろうけれど、それでもきっとほんの数人かの友達や両親は悲しんでくれるのでしょう。私の身体はごく一般的な棺に収められて、何か白っぽい花と一緒に燃やされて、転職を志した時に撮った証明写真か何かが弟の遺影の横に並ぶんでしょう。あんなに苦しかったのに、多分私の心臓が止まってしまったら、「私」の心も思考も消えてくれる。そう考えると、やっぱりどこか救われたような気持ちになってしまいます。

でも、私が死んでしまったとして、その時にもしかして私が弟を亡くした時のように悲しんでくれる人が居るのかもしれないと思うと、ちょっと後ろ髪引かれるような気もします。この後ろ髪を引かれる感覚が完全に無くなってしまったら、あるいは、後ろ髪を引く手を振り払いたくなってしまったら、その時私は生きてはいられなくなってしまうんだろうなと思いました。心の糸がぷっつりと切れてしまうあの感覚は、きっと一度でも本気で死のうとした人間にしかわかりません。

大学3年生の1月27日に、私は一度だけ首を吊ったことがあります。ちゃんと調べてからやったのに、それでも失敗してしまったから、今こうしてスマホに向かって成仏させ切れていない誰にも言えないことを書けています。

弟が亡くなったあの日に壊れてしまった私の中の時計が、ようやく少しずつ動き出して、やっぱりまた止まってしまった。それでそのままずるずると、「ほっとけばその内どうにかなるでしょう」と余生を生きているような気持ちで今の今まで生きてきました。

つまんない人生です。くだらない。何にもならないのに、どうして私が生きているんだろう。毎日同じことの繰り返しで年老いて死んでいくのか。そう思うと、少しでも「まだ若かったのに」とただ若いというだけで死んだことを惜しまれる内に死んでおきたいものだと思います。弟に申し訳ない。ああやっぱり、私は弟と運命を取り替えて欲しかった。私が代わりに死んだら良かったのに。